輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書、2023年)、凄まじい迫力だった。日本の大衆音楽史に新たな視点を持ち込もう(なんならひっくり返そう)という企図と、ユーモアもまじえた語り口で一気に読まされる。録音ではなく実演に重きをおくという基本的なスタンスは、「録音物としてのポップ」に軸足を置いている身からすると刺激的であると同時に耳が痛い話でもあるが。末尾に語られる"本当は「芸人」と「音楽家」という区別自体を撤廃したいと考えている"(p.275)というささやかながらラディカルな提案に触発される人は少なくないのでは? 来年の朝ドラの予習にもぜひ。
Liella!の新譜をチェックするのは遅くてもこういうのには機敏に反応してしまうのだった
リベラルの人の「私たちは気付いているけど、あの属性の人や、大部分の普通の人は違う」という姿勢は本当に気を付けたほうがいい、私もしがちなので深く反省。トランプ政権を生んだブルーな人たちと同じ轍なので…。プアホワイトと呼ばれる層を対等な人間と扱わなかった、というのは耳に痛い教訓。
それを指摘した『ヒルビリーエレジー』は映画にもなった。Netflixで見れます
こういう恐れの感覚が、今ではとてもわかりにくいものになってしまった気がする。
「テレビドラマを書いているでしょう。すると、あ、障害者の話を書こう、次は老人の話を書こう、次は中年女性だ、みたいに、次から次と対象を変えていく。ところが、それらのひとつひとつに徹底してつきあっている、生涯かけてつき合っている人たちもいるわけです。しかし、僕はそうじゃない。その点では、コピーライターの人たちも同じだと思うけれど、それを重ねているうちに、本当に自分の精神が薄くなるというか、魂がカラカラになっちゃうんじゃないか、そういう思いにかられるときがある。
ここで一度立ち止まらないと、葉っぱでも何でもいいからじーっと一日中見てる、というような生活を取り戻さないと、何が何だかわからなくなってしまうんじゃないか、そういうこわさ」
「テレビに何が書けるか」山田太一(『広告批評』1983年6月号)
関東大震災における朝鮮人虐殺を否定する人たちとその周辺のTwitter言説、じっくり分析するわけではないけど少しずつ眺めていると、「非常時に言葉のよくわからない人たちがやってきたらそれは怖いですね」「(福田村事件のような構図を)日本人同士の喧嘩なんだから虐殺とか差別とか関係ないですね」といったライトな虐殺否定層が目について、自分は彼らが最も恐ろしいと思った
おれもそうっちゃそうなんだけど「これが語られてない」というのはイージーで、「いや語られてきた」と固有名詞を挙げるのも不足にもほどがあって、結局やるべきは資料にあたる、識者に取材する、なんだけど、そこで行動にうつすのはめっちゃ大変で誰もなかなかやれないしやらない。異常使命感パーソンを待つか、そのとっかかりになるような仕事をうみだすかしかなかろう。おれだったらいまのK-POPをめぐる議論のなかでNewJeansおじさんの話を適当に誰かに書かせるよりも古家正亨さんとかまつもとたくおさんとかキャリアの長いK-POP関係者にロングインタビューとるだろうなと思う。
【メグレと若い女の死〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 HM 16-3)/ジョルジュ・シムノン】見事な切れ味。じりじりと死者の人生が明らかにされ、その姿を自分のなかに克明に想像したメグレだからこそ虚実を見抜くことができる、という説得力ある結末に... → https://bookmeter.com/reviews/115741989 #読書メーター
https://tegi.hatenablog.com/
四十代男です。映画と音楽とアニメが主成分。Twitterの避難先としてアカウントを作ったので、あまり盛んには使いません。フォローリムーブいずれもご自由にどうぞ。 トランス差別に反対です。しばらくTwitterに戻っています(@tegit)。わたしはイーロン・マスクに負けました。