『ケストナーの戦争日記 1941-1945』
https://www.iwanami.co.jp/book/b649629.html
一九四一年一月十六日
「決めたぞ。戦時下の日常で起きた重要なことを、きょうからひとつひとつ書き残すことにする。そういうことを忘れないために書くのだ。この戦争がどのような結末を迎えるにせよ、意図して、また意図せずに忘却され、改変され、解釈され、また再解釈されてしまう前に。」
生きるって異常事態なんだ、からくりからくさにそういう台詞があった。でも、宇宙には生物がいそうな星が結構あるとも聞くし、トータルだと半々くらいなのかも。
『人種主義の歴史』
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1583.html
“サルトルは「ユダヤ人は無前提に存在するのではなく、反ユダヤ主義という思想がユダヤ人を作り出すと指摘している。頻繁に言及される論点だが、これはまさに、人種は所与のものなのではなく、人種主義が人種を実体化させていると言い換えられる」。
ユダヤ人という「人種」があるのではなく、反ユダヤ主義がユダヤ人という「人種」を「実体化させている」のであり、人種がないから人種主義も存在しないのではなく、人種主義が人種を「実体化」させているのである。”
→あまり、こちらが勢いよく攻めれば、彼等は、心を閉じてしまい、なにか見事な一語で、もはや議論の余地はないという。といっても、それは、彼等が、説き伏せられるのをこわがっているからではない。ただ、自分が、滑稽に見えるか、あるいは、自分の困惑が、味方に引き入れようとしている第三者に、まずい効果を与えることを恐れているにすぎないのである。/以上のように反ユダヤ主義が、理論も経験も撥ねつけるからといって、その信念が固いという証拠にはならない。むしろ、なにもかも撥ねつけることに決めてしまったから、信念が固くなったのである」(安堂信也訳『ユダヤ人』岩波新書、一九五六年、一八―一九頁)。
章末の註にあるサルトル『ユダヤ人』からの抜粋が印象的だった。
──「彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ『権利』があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどわせたりすることだからである。→
賢人と奴隷とバカ
01.現代日本の「反・反知性主義」?
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
『人種主義の歴史』https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1583.html
“人種主義が新たな段階に入ったのは近代国家の誕生と密接に絡んでいる。「近代国家の形成期には、均質な国民を創出する方向と、異質とみなされた人びとを排除する方向と、二つのことが同時に起きた。それは支配的な者とそれ以外の者という二分法の社会を生みだしたのではない。むしろ相違はさまざまなレベルで見出されて国民が階層化され、複層的なアイデンティティが作られた」。
ユダヤ人の人種化もこうして行われるようになり、ユダヤ人もアラブ人も指していたantisemitismはもっぱらユダヤ人に対して用いられるようになっていく。これがついにナチズムへといたることになる。”
“重要であるのは、西洋における他者蔑視の表象である〈野蛮の言説〉をヒトラー個人に還元せず、西洋植民地主義の明白な帰結のうちにヒトラーの思想をも位置付けることです。そのことを確認すべく、飽くことなくエメ・セゼールの『植民地主義論』(一九五五年)の次の言葉を引用しておきます。
「ヒトラーか? ローゼンベルクか? いや、ルナンだ」。”
第一一講 ナチズムの論理と実践
植民地主義からホロコーストへ
野蛮の言説
(春陽堂ライブラリー 2)
著者: 中村隆之https://www.shunyodo.co.jp/smartphone/detail.html?id=000000000692
“〈戦後精神〉とはナチズムを〈野蛮〉の烙印を押すことで、これに連なる言説の系譜を徹底的に批判し、科学的言説の効果を無効化します。(略)ナチズムの言説とは、一八世紀から一九世紀にかけての人種をめぐる科学的言説を基盤としています。とくにその直接的影響は、いわゆる社会ダーウィニズムに求められます。こうして社会ダーウィニズムにまつわる言説はナチに連なる無根拠にして害悪な「似非科学」だと断罪され、忘却
されていくのです。”
“むしろ社会ダーウィニズムからナチズムに至る言説を「似非科学」だとして切り捨てるその〈戦後精神〉あるいは西洋の啓蒙の言説こそが、文明と野蛮の構図のなかで発想される、オーソドックスな〈野蛮の言説〉である、と言えば言い過ぎでしょうか。私たちの取るべき立場は、ナチズムの言説をヨーロッパの土壌から十分な知的養分を得て形成された怪物的な言説だと捉え直すというものです。”
第一一講 ナチズムの論理と実践
植民地主義からホロコーストへ
野蛮の言説
(春陽堂ライブラリー 2)
著者: 中村隆之https://www.shunyodo.co.jp/smartphone/detail.html?id=000000000692
顔の痛み、とりあえずマウスピースをつけている。
徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
https://note.com/k2y2manabe/n/nb14c34882909
“いうならば旧植民地宗主国とその国民の多数派は「道義的」という言葉を責任回避のレトリックとして用い、旧被支配諸民族はあらたな法的責任の源泉として用いようとしているのである。ここに「道義」という概念の定義をめぐる反植民地闘争が繰り広げられているともいえる。”
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