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難しいところですが、バネット゠ワイザーが「ポピュラー・フェミニズム」を論じたのと似た意味での「ポピュラー男性学」を名指していく必要はあるかな、と思っています。拙著(『新しい声を聞くぼくたち』)はそのような名付けはすることなくそれをすでに論じたのですが。もちろん、「男性学なんてポピュラーじゃないよ」という声もありそうだし、やり方によっては内ゲバっぽくなってしまってよくないのですが。それでも、ポピュラー男性学的な主体のヘゲモニーがどのような布置の中にあるのかは見すえていかなくてはいけないかなと。どれだけ人気が出なくても、ある種嫌われても、と。この次のフェーズの準備として、という感じです。(ポストフェミニズムについての議論も同じ。)

私、テーゼのない文章がすごく苦手でした。テーゼのない文章というのはつまり、知識しかない文章とか、(書き手の)キャラクターや態度しかない文章ということなのですが、最近ちょっと反省中というか、テーゼのない文章も重要ですね。テーゼはないけど魅力的な文章を書けるようになってみたい。

ものを書いている人は自分が書いていることの重要性に当然確信があるのですが、そんな本をそもそも買ってもらって開いてもらうまでの道のりの険しさよ。「この本は読んどかなきゃ」と思わせる本と、「この本は関係ないな」と思わせる本の分かれ目は一体どこか。正直、その分かれ目は本の中身と関係ない場合も多いと思います。とはいえ関係ある場合もあるけど。そんなこと編集者のみなさんはそれこそ胃に穴が空くくらい考えつづけているのだと思いますが。

3月11日(土)、オーウェルをめぐる多彩なイベントです。後半戦のシンポジウムに私も登壇します。オーウェルの男性性について考えてみたいと考え中。

【文学部・大学院文学研究科学術交流企画】ジョージ・オーウェル生誕120 周年記念イベント「暗闇のなかの希望」 | 日本女子大学 jwu.ac.jp/unv/lecture_news/202

共訳書のアンジェラ・マクロビー『フェミニズムとレジリエンスの政治』(青土社)の増刷が決まりました! ミソジニーと反福祉の感情がないまぜになった動きが日本でも目立つ中、そのような流れに対抗する知恵を与えてくれる一冊だと思います。引きつづきよろしくお願いします!
seidosha.co.jp/book/index.php?

朝日新聞デジタルの『風の谷のナウシカ』をめぐる連載、本日は恥ずかしながら私の回となります。有料記事ですが、よろしければご笑覧ください!
digital.asahi.com/articles/ASQ

あれかな、イーロン・マスクは「表現の自由なんて「俺様の自由」でしかない」ということを身をもって表現しようとしているのかな。だとしたらちょっとえらいと思ってしまうけど。

『3月のライオン』と『ハリー・ポッター』シリーズ(こっちは文字通りの「起業」ではないですが)もエントリー。

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Twitterでぐちゃぐちゃ書いたことをまとめてみる。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』は、起業物語になってからはちょっと冷めた目で見てしまっています。ただ、「大人たちへの反乱としての起業」という物語類型は検討の余地がありそうな気がします。今思いついている作品は『銀の匙』と『天気の子』。(他にあったら教えて!)

ひとつの疑問は、現在の若い人にとって、起業というものがオルタナティヴな社会や人生を想像するための有効なアイデアになり得ているのかどうか。

私の場合、90年代に学生をやっていて、身のまわりでも意識が高そうな人たちは一斉に起業に走った。それは(反転された)革命の雰囲気でした。肯定するか否定するかはともかくとして。

そこから時代は一回りして、「起業」はどうなっているのか。それで気になるのは、上記の作品の作り手が60年代終わり〜70年代半ば生まれであって、私と広めの同世代と言っていいという点。(『水星の魔女』の構成・脚本の大河内一楼氏は68年生まれ。)起業にある種の希望を乗せてしまうのは、ある世代の手癖みたいなものかもしれず、どうなん?と思う部分があるのです。

精神分析は、まさに「比喩を別の比喩で置きかえることからどうやって脱するか」(この場合「欲望」をどうやってつかむか)をずっと問題にしてきたわけですが。でも、大筋の結論としては無理なわけですよね。直接つかむのは。

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ずっと引っかかっているのは、「比喩を別の比喩で置きかえる」ことは批評なんだろうか、ということ。いや、その考え方は、文学と批評を切り分けていてよろしくないというのは分かっているし、秀逸な批評は秀逸な比喩を使うんだとも思いますが。ただ、「すごく面白いんだけど、これは比喩を比喩でうまく置きかえただけだよね」と思わせるような種類の「批評」が存在することも確か、というか見方によってはほとんどの批評がそうかもしれず。

ここのところ、「イデオロギーを下部構造としてとらえてしまう」という畏友の言葉がずっとひっかかっていて、比喩を脱して下部構造に向かうような言葉こそ批評であるという部分を、もう一度考えておきたいというか。よく分かりませんねすみません。

そうそう、『ウィロー』。私が14歳のころに公開された1988年版の「原作」、かなり好きだったんですよね。ということで新版を期待を持って観ているわけですが。

まだ二話なので決定的なことは言えないですが、ヴァル・キルマーが出ることはないんだろうな……。でも、まさか?

丁寧にやりすぎると飛距離が短くなるのかな……。

もちろん『チェンソーマン』も広くはそれで。その意味で、『チェンソーマン』は日本のヒーローものの最終/最新変奏として見るべきなんですよね、という路線で、ヒーロー論の連載は年明けくらいから太平洋を渡る予定。

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『新しい声を聞くぼくたち』では『怪獣8号』を憑依系→男性性の「補綴」の型として捉えたんですが、それの肝心の起源って『ウルトラマン』なんですよね……。すっぽり抜けていた。

『鉄腕バーディー』なんて、明確にウルトラマンのジェンダーをひっくり返した作品だったわけで。その線で色々洗い直してみるか。

コロナを経ても全然ペーパーレス化しない研究費関連の書類の印刷を大量にやってたら、プリンターがオーバーヒートしたのか何なのか、一枚印刷するのに迷って迷って5分くらいかけやがる。かといって止まるわけでもなし。

いや本当に、どう考えても書類は全部電子のままでいけるのに…。

元首相が暗殺されるご時世に学者が襲われることにそんなに驚くべきではないとはいえ。とはいえ……。まずはご無事とのことで不幸中の幸いです。

今日は何?湿気でむちゃ体調不良です。心も落ちてる。

今週土曜の川崎市の講演会ですが、対象者の居住地域の制限をなくしたそうです。30歳未満であればどなたでもご参加いただけます。インタラクティヴな講演会となります。座って話を聞くだけではなく、声を出して考えてみよう、というセッションを設けます。ぜひ!

”ぼくたち” は”新しい声”をどう聞くのか | 川崎市男女共同参画センター scrum21.or.jp/seminar/sc39404.

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