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もし人が「資産」であったなら、それは所有の対象イコール奴隷状態、ということに他ならず、またもしも「資本」とするのなら(人的資本という論法)、端的にそれは擬制以外の何物でもなかろう。

さる高名な維新史研究の大家、「御仕置例類集」を知らず繙いたこともなかった模様。それで果たして近世日本の法制史について云々できるのかなとも。

故渡邊守章がかつて、『世界』などに書いて載せるなど…といった趣旨で述べておられて、しかし当の本人は『へるめす』誌の関係では常連であって、といったことがあり、同じ版元であるのに卓越化のごとき振舞いをしていて何とも、といった印象を受けたのであった。往年には岩波書店内での新旧論争でもあったのか。

いま『世界』の8月号(最新号)がネット経由で購入できなくなっている! と(ネット上で)騒がしいのだが、そうかと思って身の周りを捜したら、既にふつうに書店で購求していたのだった。

Sho ONO さんがブースト

矢田次男の評伝を誰かジャーナリストが手がけないかな。ヨイショ的な記事としては、これなど。 legal-agent.jp/attorneys/human

SNSの領域における「いいね」や「お気に入り」とはそもそも、一体何であるのか。しょせんはただのボタンに過ぎないのじゃないかと口に出そうになるが、その反面で、このクリック行為を殊のほか重要視している向きもみられる訳である(「警察」などとも言われる)。この懸隔は、はたして(ディス)コミュニケーションにおいて何をもたらすであろうか。

その彼は、「二次元」ゲームやネットコンテンツには興味があるけれども哲学思想のほうはノーサンキュー、というタイプだったので、例の「動ポモ」フォロワーのひとりだったわけですね。こっちはと言えば、『批評空間』誌上ぐらいでしか読んだことがなかったので、当時はかえってそのようなファンの態度が「新鮮」にみえていました。

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以前に、学会の編集担当委員だった某研究者が、東浩紀の読者だということがあって、へえそうなのかと思い、「ではデリダも読んでるんですか?」と問い訊ねたところ、「いえ」と別段、にべも無い様子だった、ということがあった。私はここに、たとえ人文系の研究者であっても、デリダの哲学的言説には何ら興味はないがアズマンのファンである、という存在を眼の前にしていたことを、なぜか想起するのである。

東大も、法人化以後は集権的封建制みたいなところがあるかな(集権的編成が進んだ)。

町触で「町々」と出ていれば、「まちまち」とは読まないに決まっている。

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町触ひとつ読ませるのも、いまとなっては結構大変なことなんだな…

twitter.com/hazuma/status/1674 歴史屋ならば、「暴動の歴史はどういうものであったか」との問いをたちどころに立てるであろう。暴動に臨む際にも、ひとは「歴史している」のであり、何らかの歴史的経験を参照しているのである。その意味で、それは歴史実践でもあるといえよう。

現代の能力主義からすれば、往々にして、実に多くの資質が要求されていることは確かである。至るところで、余裕というものの欠けている証左である。

twitter.com/accentdeverite/sta やっぱお仏蘭西なの? こういう無関心なのには、徴候的なものがあろうか。ちょいと調べりゃいいだけのことなのに。

過去にも現在にも未来にも無責任であることを意味するから。

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twitter.com/gweoipfsd/status/1 こういうひとが、大学にかかわっていて、しかもそこでのウリがコンテンツのアーカイブ化であったりして、たとえこちらが普通のアーカイバルコントロールとは無縁だったとしても、本当に困ったものである。

興に乗ってるのだがなんだかわからないけれども、こういう時の、「国際政治学者」たちがキャッキャしている振舞いというのは一体、なに。

twitter.com/hazuma/status/1672 政治にそういう面はあるだろうが、アズマンがこう述べると反革命としか思えないし、実際そうでしょ。

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