今日もすれ違ったのだけれど、すぐ気づきもしない。きっとマスクしてる人間は普段無視しているのだと思います。
@showono_codesowhat
なるほど。その話、前に僕も聞いたことある。
しかし、まず問題なのは、生前の中上に会って「優秀だ」と認められて、喜ぶこと。
あの時代の中上、日本の文壇のマチスモの権化のような威勢を振るっていた。
私は同年生まれですが、中上の小説一応読んだが、その点は生理的嫌悪からとても好きになれなかった。この点は大江の小説も同じ。ただ、大江は「嫌い」ではなかった。
大学院生になって中上周辺の幇間たちと2,3度飲む(私は烏龍茶)機会があったが、日本の文壇の腐敗、すでにただならぬものを感じた。
あの時は柄谷もいて、幇間は柄谷を「よいしょ」していたけれども。
王寺はわれわれの世代には珍しく前世代のBetween men に親和的な男だったので、たぶん「違和感」もなかったのだろう。
しかしそれから35年「思い出」として「大切」にするのはいいとして、今まだ「ミソジニー」のままなのはいただけない。
そろそろ誰かに寄生してポジション・トークするのはやめて、知的に「自立」するべきでは。
投稿に関しては「天安門広場でYMOに・・・」は私は本気で怒った。これぞ自分は「安全地帯」にいて「政治的暴力」を愉しむ嗜み。腐敗した王朝貴族そのものです。自分は「黒五類」なのをまずは気づけ。
@showono_codesowhat
ええ、ですから、その時ファンで「嬉しかった」のは別にいいのです。
ただ、その後30年間の「自分」の人生を生きて、考えてきたか?ということなのです。
最近の王寺くんの投稿見ていると、30年前つまり25歳前後の頃と言っていることが「ほとんど」変わらない。むしろ劣化した。
これ、やはり京都でナンベリダラリと「脱原発異論」+浅田彰とホモソーシャル、ミソジニーの空間の温泉に漬かり続け、ふやけてしまったのでは?ということ。
今「正道」に戻る最後のーわずかではあれー最後のチャンスでは、という気持ちです。
王寺が青春時代の思い出として大事にしているのは、中上健次との出会いだと思うんですよね。生前の中上に「すごく優秀」と認められたことが、自信につながっているところがある。