https://www.youtube.com/watch?si=egCGiBo4a7mVBTi4&v=7S7F0YpaLr4&feature=youtu.be
そういう点からも考えると、8月22日の彼女が男女コンビである、という部分も面白いです
やってる笑いの種類的には、ぐんぴぃさんのDT自虐的な文脈のさらに先鋭化させたものとも言えるわけですが、それが例えば南海キャンディーズの山里さんのような非モテ自虐ツッコミみたいな方向に行くのではなく、かといってダウ90000のようなメタファーに留めながら集団演劇化するわけでもなく、
そのニュアンスをど真ん中から描くためにむしろ男女コンビである必要があるといった感じ(そういうタイプのネタだけをやるコンビじゃもちろんないですが)
千代園さんがそのニュアンスを汲み取れるタイプだと言うのも大きいと思います
みなみかわさんは解説の中でエロ系下ネタ芸人界に最近はDT芸人が増えてきてると言っていましたが、そのニュアンスは鶴光さんやケーシー高嶺さんの進化の進化の進化を重ねた地点の先に8月22日の彼女というラーメンズの系譜みたいなコント師が立っている、という状態にも捉えられるのが面白いです
https://www.nhk.jp/p/ts/47NWJQ9RP7/
NHKの性教育番組にぐんぴぃさんが出れる事から考えられる事は、バブル期以降の平成中期から令和までの下ネタ芸の在り方は、「(2次元的な)性産業の細分化」×「性教育」というような塩梅で、個々としてはニッチなフェティッシュが促進しているが、大衆領域では例えば性風俗店やナンパ術のような男性中心のエロ(もっと言えば家父長制度とも結び付いている気がします)ではない方向に向かっていってると思います
すごく単純に雑に言ってしまえばこの番組のメインMCにサーヤさんが選ばれている事から分かるように女性を中心に置く事で提示している方向性があるという事です(これらを男性的、女性的、と分ける価値観の時点でちょっと違うのかも…とも個人的には思っています)
そして、これは考えすぎ的な視点でも捉えてみると、テラスハウスであった木村花さんのような件からも分かるように、ステータス的な側面で異性を選んでゆくゲームの状態化(とそれをショーにした時に噴出する義憤的な感情含めて)マッチングアプリ的な恋愛観の裏街道的な波及、BL的なもののビッグコンテンツっぷり、などを見ると今までの反動でコチラの側の方も時代性と共に膨らんでいってるようにも感じています
また、もう少し過去の視点も取り入れてみると、ここ最近みなみかわさんのチャンネルで下ネタ系芸人の振り返りというトーク企画があって、なかなか面白かったです
みなみかわさん自体の批評芸的な側面が感じられたのも良かったです
https://www.youtube.com/watch?si=NgRdAAiKEJk9G1AY&v=l7DkvEaCQQ4&feature=youtu.be
それを踏まえた上で、ただやっぱりこれってバブル期前後の昭和〜平成にかけてのテレビを中心に組み立てられたエロ芸人史という感じで、かなり男性向けエロという文脈を汲んでて無意識に分離的なスポットを作り出してる側面はある気はしますね(それが上記したような世代的なものなのだと感じています)
紺野ぶるまさんやハナイチゴの関谷さん、中村愛さんなどのメンツは出てきましたが、それは二次元的な性産業や女性向け的なものとは微妙に違うニュアンスで
サーヤさんのやってる下ネタの提示とか、ぐんぴぃさんに対比する形での土岡さんの触れ方とか、みなみかわさんがそこら辺の微妙な塩梅までは感知していないという事実によって、エアポケット的に分離してるゾーンが今まさに育まれていってる感を逆説的に感じました
なのでFANさんのやってる上記のコントとかって密室的に爆笑を生んでる状態になってるのかなと
上の世代はネタとして扱う事自体のアナーキーさで笑いを取ってる感じが強いですが、下の世代はその性癖にはどういう精神性が伴うのかまでを観客含めて把握しててそれをイジって笑いにしてるようなイメージ)
FANさんはそういった2次元的エロも含めた性的なものに対する心理構造を俯瞰的に見たり発露のメタファーで大喜利してたり、エロスとインテリジェンスをものすごく上手く絡めていると思います
中でも上記の動画「ショタを語る」で話してた、性の揺らぎの考察は分かりやすくて面白かったです
FANさんは同性愛者じゃないし漫画コンテンツとしてショタを愛好しているという部分も含めて、こういうかなり入り組んだ性癖の解説役として適役だと感じました
https://www.youtube.com/watch?si=yn3y9F8UOWCoPAET&v=DzSMR-2klX0&feature=youtu.be
世代的に見渡してみても、
ラランド、https://www.youtube.com/watch?si=9R3xM_2AmpNn_fBJ&v=sZo_MO4nb9Q&feature=youtu.be
空気階段、https://youtu.be/V-8-BVY-2ns?si=7VkOPUqYzmpsZeNB
ザ・マミィ、https://youtu.be/t7pVCCy--E0?si=0_CKJfM6X6qD2ne9
とかの2次元エロみたいな領域を文化的に通過してないようなコンビでも割と下ネタとしてはやや入り組んだネタを自身のYouTubeチャンネルでは披露していたりします
(これが少し上の世代だと、入り組んでたとしてもおぎやはぎがゲイネタをコントにしてたりとか、https://youtu.be/HUeLDpBUasI?si=TGQ2ktBwAWPfQnar
深夜番組で性風俗や自慰行為について直接的にネタにするケンドーコバヤシぐらいの塩梅になると思います、https://youtu.be/lRHwPh0vbM8?si=LDypp0eGuyFERrP7
そこに対しての照れなどを含めた心理的前提共有がそもそも違う気がします
FANさん、東大出身で元公務員→素人大喜利&兼業芸人活動から作家や動画編集の裏方を経てコンビを結成してるという流れなので、知性と地下ライブ界隈の不思議な両立を可能にしてる雰囲気があって面白いです
この年代のネット大喜利界隈を経由してる芸人さんのある領域の中で「性コンテンツ」をテレビでできない笑い的な形で昇華しているタイプが多いと感じています
カラタチや春とヒコーキ、あと微妙に真空ジェシカとかも該当すると思いますが、やはり年代的に2次元エロ産業みたいなジャンルの細分化がネットの登場以降進んだ事と、またそれと並行してアイドル産業が推し活的な土壌を耕して芸人さん側も推される立場として、上記したラーメンズのような世代の露悪お笑いの在り方(思想を伴う過激な発言や露骨な暴力表現)を避けていった結果、入り組んだエロスによる笑いの表現に辿り着いているようなところがあると感じています
https://www.youtube.com/watch?si=CZQid4TTn66ojDv9&v=6oWVOkTSb70&feature=youtu.be
コメント欄に「最悪のラーメンズすぎる」とありましたが、まさしく昔の小林賢太郎的な悪意が盛り込まれてる、どころかもっと明確に隠喩になってない隠喩で笑ってしまいました
04:50あたりからの千代園さんが台詞を言ってる光景がイカれててめちゃくちゃ面白かったです
例えば、これがお互いの構成要素を反転させて、
アイドルオタク→(エロを伴う実存的なエンタメだと)セクシー女優オタクとかになるのだろうし、
エロゲオタク→(エロを脱臭した二次元的なコンテンツだと)恋愛シミュレーションゲームオタクとかになるわけで、
どちらもニッチさが強まって(現に千原ジュニアさんはときめきメモリアルを知らなかった)ここまでポップ層に到達するようなバランスにならないと思います
そこが絶妙だし、逆を言えばこの似た2つのジャンルは分離させて漫才コンビに施してしまう事も出来るほど発酵しているという事だと思います
(例えばこれを女性コンビに変換させて、男性アイドルオタクと、BL漫画オタクのコンビを想像するのは難しくないほどにパッケージングとして完成されてる)
なにより2人が嗜好している推し活的な行為を伴うコンテンツ、に課金していると発信する事で一回転して推される側である芸人として売れてしまうというビジネスの立脚は、大袈裟な事を言えば第三次産業での資本主義の構造を偶発的にハックしてる感があって面白いです
https://www.youtube.com/watch?si=WMsSsTGbxfidPXyU&v=ceXd7MTqjb8&feature=youtu.be
カラタチって初見だと前田さんのアイドルオタクキャラが先行しててそれが主軸のコンビだと認識しちゃいがちですが、大山さんのエロゲオタクという要素が隠れ家的に一番肝の部分になってて面白いです
これ以上の知名度と人気を獲得してゆくと、「これの何が面白いんだ?」って本気で理解が出来ない人も目立ってくると思うんです。
(もちろん街裏さんはそれを見越して調整してゆくであろう事は前提として…)
それは別に、お笑い芸人が国民的になってゆくにつれ、比例して大きくなる反対派運動みたいなものであるので、自然の摂理と言えばそういうものだとも感じます(その上で面白さに正解がない事も踏まえて)
ただ、同時にその「これの何が面白いんだ?」という感触も含めて、街裏ぴんくの面白さは出来上がっているとも感じるのです。
「ウソ漫談」は、もはや嘘か現実か、ボケかツッコミか、という二元論をとっくに越えていて、最小単位で伝統芸能化している、事そのものが、めちゃくちゃ面白い、という状態になっていると思う。
「フレーズの大喜利性」も「描写のナンセンス度合い」も「展開のサンプリング」も「破綻のパターン」も「キャラクター造形」も「メタとファンタジーのバランス」も、全部ニュアンス芸。「なにがおもしろいん?」って潜在意識レベルでなるから、めちゃくちゃ面白いんです。
吉住のネタには、世間のパースペクティブからズレてしまった人の情熱を、アイロニカルな形で描こうとするものが多いと思う。で、そういうズレへの視線は、愛を込めたものにも差別的なものにも、どちらにも結実し得る。吉住自身がそういうズレに対する強い共感を持ってもいるのだろうし、同時にそういうズレに対する自己嫌悪的な苛立ちを抱えてもいるのだろう(だからアイロニーが必要になる)。
しかしあのデモネタは、やっぱり差別的な視線の方ばかりが前景化してしまっていた気がする。「そのキャラクターが世間からどうズレているのか」が、そもそもネタの土台において上手く対象化できていない。それでは、「世間からズレること」がむしろ生むそのキャラクターの魅力を、ひいては「世間からズレること」そのものの面白さを、笑いのなかで引き出すことはできない(例えば空気階段の「火事」は、そういう角度を持った素晴らしいネタだと自分は思っている)。
そしてこうした差別的な視線=線引きそのものは、市民社会を生きる我々の誰もが、不可避的に抱えざるを得ないものでもある。そのことに対する反省が生む無限の自己否定ループも、すぐそこに口を開けて待っている。