これ以上の知名度と人気を獲得してゆくと、「これの何が面白いんだ?」って本気で理解が出来ない人も目立ってくると思うんです。
(もちろん街裏さんはそれを見越して調整してゆくであろう事は前提として…)
それは別に、お笑い芸人が国民的になってゆくにつれ、比例して大きくなる反対派運動みたいなものであるので、自然の摂理と言えばそういうものだとも感じます(その上で面白さに正解がない事も踏まえて)
ただ、同時にその「これの何が面白いんだ?」という感触も含めて、街裏ぴんくの面白さは出来上がっているとも感じるのです。
「ウソ漫談」は、もはや嘘か現実か、ボケかツッコミか、という二元論をとっくに越えていて、最小単位で伝統芸能化している、事そのものが、めちゃくちゃ面白い、という状態になっていると思う。
「フレーズの大喜利性」も「描写のナンセンス度合い」も「展開のサンプリング」も「破綻のパターン」も「キャラクター造形」も「メタとファンタジーのバランス」も、全部ニュアンス芸。「なにがおもしろいん?」って潜在意識レベルでなるから、めちゃくちゃ面白いんです。
例えば、上記したランジャタイや永野さんは、そういう発想や設定やキャラの飛び具合みたいなものがセンシティブな面白さを孕んでいることを把握した上で、でも「うるさい芸」みたいな仕上がりにはなってて、役割としてのお笑い的なものは成立しているんだと思います。大きく言えば「すべり芸」だと外側の認識として処理出来てしまえる。
ただ、街裏さんのやってる事は、構造的にそうなってない。
本当に、「面白さ」が伝わらないと、
「面白がれない」形状をしていると思う。
キュウの漫才みたいに"法則性"とかも、あまり扱ってない。
サツマカワRPGみたいに"パッケージング"も、そんなに好んでない気がする。
「なにがおもしろいん?」と
「めちゃくちゃ面白い」が
かなり密接。同居はしてない。
そうなってくると、"存在" の面白さにもう片足は突っ込んでると感じます。
「地下芸人」や「漫談家」や「嘘つき」を
背負っていってる。