最近、中島らもさんの動画をYouTubeで漁って遡ってみています。あの洒脱な喋りが癖になって、らもさん自体に中毒性が発生しているような錯覚をしてしまいます。

ああいう80~90年代(?)頃の関西的な土壌のサブカル、アングラカルチャーみたいなものって、やっぱり今だとどれくらい残っているものなのか気になります。

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いとうせいこうさんが生き証人的に話されていますが、あの時代のいわゆるテレビバラエティ番組に出演するタイプの芸人ではないタレントやインテリ文化人、知識人の文脈の中でも「サブカル」と呼ばれるような領壁はネットの台頭とともにゆっくり溶けてゆき、とくに関西圏発のそういう俗物的なニュアンスを含めて背負っていた中島らもさんや上岡龍太郎さん的な存在というのは、なんとなくの印象ですが途絶えてしまっているようにも感じます。

松尾貴史さんやみうらじゅんさんのような立ち位置の人は、そういった雰囲気の地点を経由して出没していたんじゃないかなと思います
それは単純に時代的、経済的な前提土台を担保に巨大な地方都市としての関西圏にそういう「サブカル」的な人材が集中していたのだという分かりやすい原理だとも思いますが。

spotify.link/8NfilDz3OCb

spotify.link/IxgxUwu3OCb

ラリー遠田さんが作家のオークラさんの著書を紹介している時の浜口倫太郎さんのリアクションがそこら辺の空気感を把握できる気がして興味深いです

厳密にいえば、関東圏でもそういったサブカル文化的なものは純粋に受け継がれているとも言い難いと思いますが(このPodcastの話では「お笑い」というポイントに絞られて語られているし、なによりそういう語られ方をしている事自体が、"「サブカル」が「お笑い」に内包されていった"という現象結果を物語っているのだとも思う)
スネークマンショーやシティボーイズ、タモリ辺りのボードビル的なお笑い文化は、爆笑問題やゴッドタン周りのメンツを中心に一応形式的な模倣は成され規模感としてはメインストリームに食い込んでいる状態なのだと思います。
と、同時にそれは体型だった歴史に裏打ちされたリベラルアーツ的な建築物というよりは、より実践的なテクニックを駆使して仕上げた純度の高い物真似芸的な美しさの極みにも感じ、すごく雑に言えば、ブラックジョークとして土着性が薄いものが多いと思う。

かと思えば、その反対側にはダウンタウン的な庶民性が大衆と伝統を牽引していて、その全体像は狭い範囲で両極化されてるような感触。

spotify.link/FHoiISn4OCb

タモリさんやシティボーイズの面々が、どのくらいその意識があったのか、最初からそういうアプローチだったのか、と言われると今のタレントと変わらないとも思うのですが、(むしろより軽薄な部分があったのだとも感じます)

そういう意味では神格化する事もないのだけど、だとしても上記したような中島らもさんや上岡龍太郎さんのような面白さってどこに行ったんだろうな…と思ったりしてしまいます。

シンプルにそれがテレビ番組という領域を生息地にしていないというだけかもしれません。

増えきってしまった「お笑い」「芸人」というジャンルの中で内部回転的にそういう文化や個人が表れだしているとも思います。
大学お笑いや素人大喜利文化などはその好例と言っても過言ではないと思います。

ピン芸人の九月さんや街裏ぴんくさんとかはそこに該当する気配がするし、関西圏ではないですがNISHIMOTO IS THE MOUTHの西本さんの喋りとかはアングラとバラエティを繋ぐような面白さがあると感じています。
経済学者の成田悠輔さんが時たま見せるカルチャー方面への理解とかもそこに近いゾーンを感じます。

洒脱と土着

そういうものはもはや地域性や知識性ではなく、誰しもがそれぞれで個々人所持していてその出力加減なのかもしれません。

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