本能に対する欲動の過剰。自然からのこのようなズレに対してボルクのネオテニー(幼態成熟)説やポルトマンの早産説が持ち出される。ラカンもボルクを援用しつつ、「胎児化」による「発達のおくれの結果」として「視知覚の早すぎる成熟がその機能的さきどりの価値をもつ」という事実を根拠に、「鏡の地獄」と呼んだ鏡像段階の理論を展開している。

「したがって、感情に訴えかけるのはファシズムの方へ突き進んでいる人間に特有のもので、民主主義のプロパガンダは理性と自制に限定しなければならないと考える必要はない。恐怖と破壊性がファシズムの主要な感情的源泉であるとするなら、民主主義には主としてエロスが属しているのだ」(『権威主義的パーソナリティ』)

アドルノは自我に関する理論において、二つの考えの間を揺れ動いている。一つは自我というものは廃絶されてしまっており、支配者に管理されるアトムとなった人間たちという考え。もう一つは、弱体化してるとはいえ自我は存続しつづけているのだが、しかし自分の身を守り無力な状態を抜け出そうとして、ほかならぬ当の権力と一体化してしまい、自律について考えることすら放棄することになるというもの。後者の考えに立脚する場合、この弱体化した自我について、「大衆心理学と自我分析」というフロイトの研究にかなり依拠しながら「集団的ナルシズム」にかかわっているという診断、またアンナ・フロイトが行った自我の一定の防衛形成の解明をわがものとしつつ「攻撃者と一体化」しているという診断をくだすのだ。それはまさにフロムが『権威と家族に関する研究』から『自由からの逃走』において、〈サド-マゾヒズム的性格〉あるいは〈権威主義的性格〉と呼んで分析したものであった。

アドルノは前エディプス期の発達に比較的無関心だったことから、もっぱら母性愛だけを強調して、母性の権威の方は軽視しがちだった。それにアドルノは、フロイトの男性的偏見をそのまま受け継いでしまった弱みがあり、ブルジョワ家庭によってつくりあげられた自律性をもった男性的個人こそが現状に対するおよそ可能な反抗のただ一つの砦だという想定もそのうちの一つ。

精神分析の理論には惹き付けられていたが、その療法には否定的だったのがアドルノの精神分析評価の特徴。

アドルノのフロイト評価

晩年の、心の本能的下部構造へのいっさいの関心を事実上放棄してまったようにも思われる順応主義的な自我心理学へ向かう傾向を、社会全体が非合理的であるにもかかわらず、完全に統合され成熟した自我にゆきつくことが可能であるかのように装うことは、何ものでもないと拒否。その代わり、初期の理論、現代的実存の精神的外傷(トラウマ)を記録するやり方に惹き付けられていた。

社会研究所内のニーチェ批判(物質的欲求の充足を目指す社会的革命への実践的志向や勇気の欠如といったマルクス主義寄りの批判が大勢を占めた)の論陣に対し、ニーチェの文化批判を擁護するアドルノには市民→民衆→大衆というコースを辿るアメリカ社会の現実が念頭にあり、民主主義や社会主義といったものが政治的利害を代弁する宣伝手段といった意味での「イデオロギー」になってしまった今、意識に燃えたプロレタリアートによる、社会体制の全面的改革など一種の偶像崇拝であると批判者のマルクス主義的認識を斥ける。アドルノから見たニーチェの「超人」概念は、全体主義、独裁主義的なカリスマ的権威を指すのではなく、絶えず自己の限界を超えていく自己超越、自己克服能力の持ち主のことを指す反省的な主体である。

アドルノを最初に日本に紹介したのは清水幾太郎『テレビジョンの功罪』。ジャーナリズム批判の文脈。

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