自己管理での妊娠中絶(中絶薬を使用するもの)に関する情報周知の必要について。
以前にも、妊娠中絶の権利について、米国では当初は女性たちが自分たちの手に妊娠中絶を取り戻す運動をしていた(比較的安全に妊娠中絶処置を行う医師を紹介し、必要があれば処置の必要な女性をそこまで連れて行くようなネットワークを作っていた)のが、徐々に法的権利闘争に力点が絞られ、ロウvウェイドの判決をへてその傾向はますます強まった、とどこかで読んだか聞いたかしたことがある。
それに対して、メキシコだったかな?中南米のどこかだったけれども、そういういわば「違法」なネットワークを維持して確固たるものにして行くことに力点が置かれてきた、と。そもそも政府を信じられないし、何があっても自分たちのネットワークは残る。
どちらが良いという話ではないけれども、「違法」なネットワークの構築というのはラディカルフェミニズムの精神により近くはあるのだろうし、それが米国で戻ってきていると考えるべきなのだろうか、だとしたらそこにはどのような政治的意味があるのか、などと考えている。
https://truthout.org/articles/learning-to-self-manage-abortions-is-key-in-a-post-roe-society/
"周知のようにレヴィ=ストロースは構造の不変性を前提しているが、それは構造の堅固さを強調するためではなく、むしろ算術計算に際して四則演算の規則の不変性を前提するのと同じことを行うためである。(…)言い換えるなら、構造が不変なのは一種の取り決めによってであるに過ぎない。もし構造主義が静的だという非難に的外れなところがあるとすれば、それは四則演算の規則が不変であり、静的だと告発する滑稽さに相通ずるところがあるからである。他方、もし同じ批判が的を射ているとするなら、それぞれの変換群が構造だけでなく、それに結びつく個々の社会的かつ政治的な諸条件とどのように関わり合い、渡り合っているのか、という問題が等閑視されてしまう危険があるからである。"
澤野雅樹「死と自由 フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ」(p.81~82)
→ 先日刊行イベントのあった『ACE』も著者のチェンが時折「ACEはAlloと違ってsexに関して解像度高くならざるを得ないので」みたいな言い方になる箇所があって、いや最終的にAceラベルを採用しようがAlloラベルを採用しようが考えない人は考えないし考える人は考えてるでしょ、と思ってそこは気になっていたんだけれど。
というかそもそもチェンが「性的」という時に念頭に置かれているのが(BDSMの例とかも出してはきているけれども結局のところは)性器接触を中心としたエロティシズムであるように読める部分もあって、sexをざっくり考えてるのどっちだよ〜と思ったりとか。
(例えばバーラントとワーナーがかなり昔に論文で例に出していた「強制給餌/嘔吐をめぐる身体的な親密性」とか、私は感覚としてはわからないけど、あれは性的と言うのか言わないのか、それを性的と呼ぶこと/呼ばないことそれぞれの政治的な意味は、とか考えるのですが)
精神科病院の看護助手や派遣バイトで税金や中退した大学の奨学金を払いながら本を読んだり絵を描いたり音楽を聴いたりしています。