気散じは、情報技術に媒介された世界が発する騒々しい刺激の襲撃をかわし、ファンタスマゴリーに満たされた世界の背後を「まさにここ」として感じ直し、ここに出て、降り立つことを可能にする姿勢を意味している。気散じは、外的刺激に気を取られ、思考停止になることを意味しない。逆である。刺激に介入するのではなく、それを自らの内に取り込み、音楽や映像作品にしていくことで現実知覚の解像度を高め、実際に起きているのが何であるかをしっかり感知し思考するための条件である。
篠原雅武『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』p.53~54