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月イチで開催されてる浦和の古本まつりで買ったものとメルカリから届いていたもの。「サルトル哲学序説」と「資本主義の起源」を買えたのは大収穫なのでは。メルカリから届いた現代思想のドゥルーズ特集はアガンベンの邦訳や廣瀬純によるラプージャッドへのインタビューが収録。

「ラカニアン・レフト」所々挟まる豆知識が面白い。「広報の父」と呼ばれる広報・宣伝分野のパイオニアであるエドワード・ベルナイスはフロイトの甥。フロイトの英訳の出版にも一役買っている。広告産業の動機調査の技術を発展させたアーネスト・ディヒターもフロイトの影響下にある人物。消費行動の無意識的な動機の調査のために精神分析を使うこともあったとか。こうして、精神分析の自由連想と、深層面接と市場調査のために抽出された消費者グループとのアナロジーが生まれる。

ヤニス・スタヴラカキスの「ラカニアン・レフト」をぼちぼち読んでいる。ジョエル・ホワイトブックの名前がちらほら出てくるのが興味深いですね。

metaphysicaの語源ってアリストテレスの死後講義録をテュラニオンって蔵書家が整理編纂した時に、アリストテレス自身が"第一哲学"と呼んでいたノート群が"自然学"関係のノート群の次に配列されて、その時に与えられた"自然学の後の巻"という呼び名からだということを知った。最初は本の配列順を指すものでしかなったのが重大な意味を持つものになったのは古代末期にアリストテレス哲学がキリスト教の教義体系組織のための下敷きとして使われるようになってから。「後」という意味のメタが、「超」という意味のメタに読み替えられた。

"歴史的な現実をアポカリブスというタームで語ることによって。そうした現実は、たとえ恐るべきもの、壮大なものであるにせよ、ひとつの観念に還元されてしまうだけである。わたしたちが生きているのはイメージの地獄──それは抽象的で仮言的で、その広大さきにいたるまで単純な場である──などではなく、特定のイメージの歴史によってそのつど構図の変わる複雑な世界である。地獄、それは歴史の反対物である。"

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「受苦の時間の再モンダージュ」p.99

ジルソンの中世哲学の精神が古本屋の店外ラックに投げ売りされてたので買った。ドゥルーズの中世哲学理解はほぼジルソン経由らしい。

ガザへの空爆が始まってから、ショッキングな映像を目にする機会が格段に増えた。映像越しに死体を見るのは珍しいことでもなくなった。トラウマ的映像とその拡散。これも虐殺が引き起こす状況の一つ。

世季子 さんがブースト

納得のいかないキャンセルに抗議なさるのはもちろん当然だと思うのだけれど、それならそれと同時に、お膝元の学会誌でトランス関係の査読論文が査読コメントもなく突き返されたり、差別的発言に抗議してスタンディングする若手マイノリティ研究者をわざわざ写真に撮ってみせてそれに対する写真削除要請を学会幹部が黙殺したり、そういう、キャンセルされるポジションに辿り着く前の段階での声の封殺に対しても、もう少し目を向けて頂ければ、とも思う。

昨日の「山谷 やられたらやりかえせ」と「狼をさがして」の2本立上映の後、足立正生監督のトークで山谷をパレスチナで上映会したとき、パレスチナ人が都市の中でも抵抗は可能なんだと勇気付けられていたという話を聞いた。パレスチナ人は農民の土地奪回運動として三里塚には共感したけど、都市の労働者運動である山谷には共感してくれるだろうかと足立監督は最初不安だったそう。

世季子 さんがブースト

「トランス差別」には関心があるけれど、トランスの人たちが生きている現実や、トランスジェンダーという集団を取り巻いている差別的な法律や制度には何の関心もない人がたくさんいる。そんな人はトランスアライでもなんでもない。

ジュネのパレスチナ擁護はベンヤミンの言う「政治の美学化」に過ぎないのでは?という疑問を持っていたが鵜飼哲の『応答する力』に収録されている「裸と盲目」というテクストを読んでなるほど〜と思った。

世季子 さんがブースト

自己管理での妊娠中絶(中絶薬を使用するもの)に関する情報周知の必要について。

以前にも、妊娠中絶の権利について、米国では当初は女性たちが自分たちの手に妊娠中絶を取り戻す運動をしていた(比較的安全に妊娠中絶処置を行う医師を紹介し、必要があれば処置の必要な女性をそこまで連れて行くようなネットワークを作っていた)のが、徐々に法的権利闘争に力点が絞られ、ロウvウェイドの判決をへてその傾向はますます強まった、とどこかで読んだか聞いたかしたことがある。

それに対して、メキシコだったかな?中南米のどこかだったけれども、そういういわば「違法」なネットワークを維持して確固たるものにして行くことに力点が置かれてきた、と。そもそも政府を信じられないし、何があっても自分たちのネットワークは残る。

どちらが良いという話ではないけれども、「違法」なネットワークの構築というのはラディカルフェミニズムの精神により近くはあるのだろうし、それが米国で戻ってきていると考えるべきなのだろうか、だとしたらそこにはどのような政治的意味があるのか、などと考えている。

truthout.org/articles/learning

グレアム・ハーマンがアルフォンソ・リンギスの弟子筋なの初めて知った

気散じは、情報技術に媒介された世界が発する騒々しい刺激の襲撃をかわし、ファンタスマゴリーに満たされた世界の背後を「まさにここ」として感じ直し、ここに出て、降り立つことを可能にする姿勢を意味している。気散じは、外的刺激に気を取られ、思考停止になることを意味しない。逆である。刺激に介入するのではなく、それを自らの内に取り込み、音楽や映像作品にしていくことで現実知覚の解像度を高め、実際に起きているのが何であるかをしっかり感知し思考するための条件である。

篠原雅武『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』p.53~54

しかし「夜戦と永遠」を読んでしまったあとだと自己への配慮だとかをシンプルに称揚するものは読んでてもの足りないなあと感じてしまうな。

澤野雅樹の「死/の写真を撮ってこい」というバロウズ論、初出が1997年なんだけどすごく虐殺器官を思わせるような内容でびっくりした。伊藤計劃はこれを読んでいたのだろうか。

"周知のようにレヴィ=ストロースは構造の不変性を前提しているが、それは構造の堅固さを強調するためではなく、むしろ算術計算に際して四則演算の規則の不変性を前提するのと同じことを行うためである。(…)言い換えるなら、構造が不変なのは一種の取り決めによってであるに過ぎない。もし構造主義が静的だという非難に的外れなところがあるとすれば、それは四則演算の規則が不変であり、静的だと告発する滑稽さに相通ずるところがあるからである。他方、もし同じ批判が的を射ているとするなら、それぞれの変換群が構造だけでなく、それに結びつく個々の社会的かつ政治的な諸条件とどのように関わり合い、渡り合っているのか、という問題が等閑視されてしまう危険があるからである。"

澤野雅樹「死と自由 フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ」(p.81~82)

東京都現代美術館のドラァグ・クイーンの読み聞かせイベントに向けられたバッシングや包括的性教育へのバックラッシュなど、クィアをめぐる政治の中で「子供」は重要なポジションを占めている。この問題はエーデルマンの批判する「再生産未来主義」を乗り越えた場所で語られないといけない。

ルジャンドルは「子の繁殖」をなにより重視しているのでクィアとは相性が悪い感じがするけど、クィアな主体が子供をつくろうがつくるまいが事実として今日もどこかで子供は生まれ続け、その中には将来クィアに成長する子供もいる。そういう観点から、生殖とは違った地平で「子供」のことを考えるのならクィア理論とルジャンドルはもっと接近できると考えている。

"個々の父親は、「至高者=主権者」の、つまり〈絶対的父〉の、代理ですらない。それは「論理的中継点」であり、〈絶対的準拠〉たる〈神〉に自らの子が同一化しないようにするための「防波堤」にすぎない。論理的中継点である以上、父親は子に「おまえは全能ではない、わたしも全能ではないのだから」と──危うくも──語りかける者であるということになる。"

(佐々木中「定本 夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル 上」p.348)

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