なんかコンテンポラリーに飽きちゃっているのよねえ。最近は、根本的に変なことをやっている反時代的な作家にのみ関心が向いている。
というか、コンテンポラリー・アート的な文法を洗練させた作品もいいけど、僕的には飽きた感じある。《どの時も、2024》のような掴みどころのない作品に惹かれるな。
フィクションとリアル、作品の内/外を次々と反転させるこうした仕組みは、《マリリン》の上映が終わり、展示室の外に設置された《ヘリオトロープ》が駆動しはじめるとき頂点に達する。
《ヘリオトロープ》のインスタレーションでは、通常美術館では忌避される太陽光を作品を通して空間内に取りこみつつ、他方で美術館の外部環境からフィールドレコーディングされた音(鳥の囀りや川のせせらぎ)がスピーカーを通して再生される。そこでは美術館の内/外を連続させるとともに、美術館の外にある自然が観るべき対象となる。すなわち、視野の外にあった自然が鑑賞の対象へと反転するのだ。と同時に、いままで鑑賞の対象だった《マリリン》のインスタレーションが今度は、自然を見るための舞台(環境)へと反転することになる。
ドローイングのみで構成されたインスタレーションも同様である。この部屋では、展示ケースのガラス面とケース内の双方に作品が設置されており、照明の明滅に合わせてドローイングが現れたり消えたりする。そこでは作品の内と外(いわば図と地)が交互に反転する。
パレーノ展に行ってきた。最初の部屋にはヘリウムで満たされた金魚の風船が宙に浮かび、空気の移動や観者の行為にともなって金魚もまた移動する。そこでは、環境と作品とが連続しあい一体をなしている。こうした作品とその外部環境との連続性は、今回観たほとんどの作品において通底していた。
《マリリン》の映像では、マリリンが実際に滞在した高級ホテルが映されていたが、それが終盤でセットだったことが暴露され、映像内で登場するドローイングもまた、その主体がマリリンではなくロボットだったことが明かされる。あるいは、画面内から聞こえてくる鳴り響く黒電話の音と、まさに同じ音が後ろのスピーカーからも流され、反復される(前者は意味づけされた表象としての音であり、後者はたんなる電話の音である)。
靖国神社ツアーをやったらおもしろいかな。境内には、黒い大鳥居、井上武吉の抽象彫刻、徴兵制を導入した大村益次郎の日本で最初の西洋様式の銅像が同居し、ほんとに奇妙な空間。
https://www.yasukuni.or.jp/mobile-guide/jp/keidai/mapgaien/
ドイツは戦後、ユダヤ人虐殺という悪をナショナル・アイデンティティとして絶対化した一方で、ユダヤ人虐殺以外の暴力に対しては盲目的になっているが、ここにはナチス・ドイツという過去の反省が、にもかかわらず、パレスチナ人のジェノサイドの肯定につながってしまうという転倒がある。いわば、ドイツは「死者の声」をナショナル・アイデンティティの形成に奉仕するものとして利用しているわけだが、このナショナル・アイデンティティの問題は日本も無縁ではない。日本は戦後「唯一の被爆国」として原爆体験(被害感情)をアイデンティティ化したが、その一方で戦後日本の平和とは、織田達朗が書いているように、「朝鮮戦争で消えた無数の死者と戦火に追われた朝鮮人大衆の犠牲」のうえに成り立っている。この加害性は不当に無視されている。日本の戦後体制を「かつての植民地帝国主義と同質な秩序の安定」とみたうえで、チョ・ヤンギュをそうした植民地主義的な秩序の裏で抑圧された朝鮮の状況を主体化できている「唯一の試み」として評価する織田の視点はアクチュアルだと思う。
美術史をやっています