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嫉妬って言葉や行動の背後に隠れていて、自分でも気づかないことが多いからほんとやっかい。大学とか学校とか会社とか小さな社会集団(準拠集団)のなかにいると、それが増幅されるから、やはり外に出ないとダメだなと思う。社会的ボジションとか知名とか欲望の対象がひとつだけだと、それが叶えられなかったときに攻撃性に転じる。

ぼくも、批評家は医者みたいなもんだと思っている。クリティックとクリニック(ドゥルーズ)。

「みんな生活に不安を抱えている。」
師匠の言葉だけど、そうだよね。

資料集めにムサビに来ているけど、卒業生の図書館利用を改善してほしい。地下ライブラリーも使えないし、しかも卒業生だけ16時半まではないよ……!

もうひとつ。転属になったあとようやく家族のもとに帰れるのにもかかわらず、良心の呵責に駆られて吐いているようにみえるが、それとラストシーンにおける未来(現在)のアウシュヴィッツとヘスの嘔吐のモンタージュをつなげて考えると、過去とは、もはや取り返しのつかない出来事であり、そうした未来の博物館になったアウシュヴィッツの姿を一瞬垣間見たことで、ヘスは嘔吐してしまう、そのように解釈しうるだろう。そしてそこに、ガザを無視しつづける現在のぼくらの状況に対する反省的な視点が重ねられる。未来を見ろ、そして現在起こっている出来事は、取り返しのつかない出来事なのだ、と。

そして『関心領域』は、慣れと不快を交互に繰り返すことを通じて、映画のラストで未来のアウシュヴィッツを映したあと(戦後の?)ヘスが吐き気をもよおしたように、人びとの生理に強く訴えてくる。けれどもショアーをそうした生理的な次元に還元してよいのかどうか。必要なのは、虐殺という凄惨な暴力がどのように歴史的に積み上げられてきたのかという観点だと思うが、そこまで言うのは求めすぎなのかもしれない。

ところが、映画の前半では悲鳴や焼却炉の轟音にあれほど感じていた違和感や不快さが、映画が進行するにつれて、徐々に薄れ、慣れ、感覚が麻痺していく。ヘス一家のように。それを自覚したとき、ぼくらはもはや傍観者ではいられなくなる。が、これはおそらく監督の意図ではないだろう。というのも、慣れるやいなや、たびたび感覚を引き戻すかのように差し挟まれる、ブラックアウトやレッドアウトによって、背後に退いた音を再度不快なものとして観客に意識化させることが、その狙いであったように思われるからだ。そうするとやはり、傍観者という観客の特権的なポジションが気になってくる。

『関心領域』は明らかに、ホロコーストの表象不可能性をめぐる一連の議論を踏まえているわけだが、それを、人びとの「関心」の問題にスライドさせているところに今日的な批評性を感じる。が、画面をリヒターのように塗りつぶす現代美術的な手法——リヒターのようなトラウマの問題ではなく、あくまでも音を前傾化させる効果として用いられている——が観客の主体性、その自覚を挫いているように思う。

『関心領域』ではおそらく、撮影用の照明器具を用いずに(顔の表情が影で見えづらくなっていたため)、ほとんどの映像が自然光で撮られている。カメラも固定で定点撮影(ノーファインダー?)。要するに、映画的な脚色(嘘)を廃しているわけだが、おそらく監督は、役者たちのよりリアルな自然な演技を引き出すために、こうした手法を取ったのだろう。

ゆえに、ぼくは監視カメラを通して覗き見しているかのような感覚を覚えた(監督が意図したものではないだろうけれど)。まるでヘス一家の日常を外から観察しているかのような映像であり、そこでは観客は、傍観者として位置づけられている。つまりこの映画は、ナチス・ドイツのユダヤ人の命への、そしてイスラエル(そしてぼくら)のパレスチナ人の命への無関心を告発する内容であるにもかかわらず、ヘス一家をジャッジする傍観者という特権的なポジションを観客に与えているわけだ。

こっちにも『関心領域』についてのコメントを置いておこう。

作品を観るという経験には(そこに読むという経験を加えていいと思うけど)自己を一回解体する契機が挟まれている。そうじゃないと、観れないし読めない。すべてがあらかじめもっている自己の観念の投影になってしまう。

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