私はジャーナリズム論はまじめに勉強したことがほぼないのですが、昨今の陰謀論があふれているのは、ファクトやエビデンスの軽視とはまったく別次元のところに根元があると思っていて、それは、むしろ物語への渇望だろうと思っています。
この場合の「物語」は、アンダーソンの『想像の共同体』で提示されるナショナリズムであったり、さらにそれより奥深い、人間の認知機能の根幹を支える、辻褄の合わないことは人間は理解できない、といったことを意味しています。
陰謀論の隆盛には、その人たちがファクトを知らないからではなく、仮に知っていたとしても、それ以上に、今の世界のわけのわからなさが引き起こす、よるべのなさ・所在のなさが強く、そこを辻褄あわせる物語が陰謀論になってしまっているからだろうと思っています。
物語は不要なのではなく、より健全な、より多くの人を包摂する物語が必要とされており、マスメディアがそれを探索的に提示するのは、役割のひとつではないかと私は思います。
昨今の複雑化した社会のなかでデータ報道の重要性が増していること、また調査報道の重要性も否定しませんが、どうにもこの手の議論になると、エビデンスやファクト、データ至上主義のような主張が強く出てくるのは、日本の言論界のマッチョイズムのせいなのだろうとは思っています。
前にホックシールドの『壁の向こうの住人たち』を読んだ時に感じたことから変わっていないのですが、時代の変化の激しさが陰謀論を呼び込んでいる側面は大きく、ファクトとエビデンスが重要であることは否定しないものの、それがあまり対向的な力となり得ないのは、人びとが求めているのはファクトでもエビデンスでもなく、意味のある人生なのだ、という点から考えても当然のように思います。
自分の人生から疎外されたと感じている人たちに、もう一度人生を自分自身のものと感じさせるのを可能にするのは、データでもファクトでもエビデンスでもなく、自分の人生の主人公である人生を取り戻すことだろうと思いますが、現在の社会はそれがもっとも難しい、とも思います。
https://note.com/ando_ryoko/n/n1b383952d310?magazine_key=mcc9b3b587f57
@heping ホックシールド、良書ですので、ぜひ。一方で、こうしたよい書籍を読めば読むほど、アメリカにはこれだけの研究成果が出せる知識人がいながら、社会状況がああなってしまっていることについて、考え込んでしまいます。
宗教が提示してきた良質の物語は、私たちの倫理の基礎となってきたと思うのですが、近代以降の科学が大きな役割を果たすようになった文明はそれに代わるものを提供できていないということだろうとも思います。
中村元、昔、何冊か読みましたが、原始仏典が、時間の経過によってインド・中国でも大きく変わり、仏教の伝播の過程でさらに物語が大きく変わっていることを知って、仏教へのイメージが大きく変わりました。
日本人は原理的・論理的思考が苦手であるというのは、歴史的に変わっていない感はありますね。