特定の思想や思想家を論じるにあたってリスペクトが必要かというと必ずしもそうとは言えないと思うけれど、肯定するにせよ否定にするにせよある思想を論じるためには深い理解と洞察が必要で、リスペクトや偏愛はそれらを可能にする必要条件ではあると言えると思う。ほら、優れた研究者ほど研究対象にセルフ・アイデンティファイするって言うでしょう。自己同一化は対象化、相対化の前にどうしても避けられないプロセスなんだろうと思います。リスペクトはこの人にこれだけの情熱を傾けますよという(理解の足掛かりとしての、)いわば掛け金のようなものですね。...ざっくりと書いたけど、理解ー同一化ー分離ー対象化についてはもうちょっときちんと精緻に語る必要があるかもしれない。
『ユー・ガット・ミー・シンギング』について三浦久の「訳者ノート」より抜粋②
私たちは今、世界崩壊後の余波の中に生きている。私たちが直面している問題は、どうしたら世界の終わりを避けることができるかではなく、世界はすでに終わっているという認識をもって、どう生きたらいいかということなんだ。
「どう生きたらいいか」という問いに対する答えが、この歌の中に与えられている。
あなたは私に歌わせた
世界は完全に終わってしまったのに
あなたは私に考えさせた
それでも諦めずに生きていこうと
補足:
なお『ハレルヤ』の歌詞対訳は下記のリンクから読めます。
https://japanoscope.com/hallelujah-wayaku/
『ユー・ガット・ミー・シンギング』について三浦久の「訳者ノート」より抜粋①
この歌はコーエンの傑作に対応している。The only song I ever had, The Hallelujah hymn, The Hallelujah songはいずれも「ハレルヤ」のことである。最後のThe Hallelujah songはブックレットに書かれていないが、実際には最後の部分で3番と4番が繰り返されている。しかし、4番の歌詞は最後のヴァースでは2行目がEven tho it all looks grimがEven tho all went wrongに変えられ、4行目がThe Hallelujah hymnからThe Hallelujah songに変えられている。当然のことながらwrongとsongの韻を踏むためである。
いずれにしろ、「すべてはあまりに悲惨なのに」「すべて壊滅的に悪くなってしまったのに」という2行目で、コーエンは、イスラエルとパレスティナの果てしない報復合戦を含む、世界が現在置かれている悲惨な状況を指摘している。彼は前述のマイケル・ギルモアとの対話の中で、世界はこれから崩壊するのではなく、すでに崩壊していると述べている。
『ユー・ガット・ミー・シンギング』日本語訳:三浦久
あなたは私に歌わせた
届いた知らせは辛かったのに
あなたは私に歌わせた
私の唯一の持ち歌を
あなたは私に歌わせた
川が干上がってから初めて
あなたは私に考えさせた
一緒に身を隠せる場所のことを
あなたは私に歌わせた
世界は完全に終わってしまったのに
あなたは私に考えさせた
それでも諦めずに生きていこうと
あなたは私に歌わせた
すべてはあまりにも悲惨なのに
あなたは私に歌わせた
ハレルヤの聖歌を
あなたは私に歌わせた
服役中の囚人のように
あなたは私に歌わせた
郵便で届く恩赦を待つように
あなたは私に祈らせた
私たちのささやかな愛が続くように
あなたは私に考えさせた
あの遥か昔の人たちのように
"Sissy Spacek - Sissy Spacek [2001]" を YouTube で見る
https://youtu.be/PGQhjSnia_I
思うにギャングスタラップっていうのはリズムにしろリリックにしろ煎じ詰めれば今日一日をどう生き延びるかという音楽で、大文字の理想を掲げるタイプの音楽ではない。ノイズはたいてい極端に個人主義的、密教的で、どちらかと言えばリスナーに孤立を促す性質のものでやはり理想を掲げるタイプの音楽ではない。いずれもフェスとかでみんなで共有するような種類の音楽じゃない。これに対してロックのプレイヤーとリスナーがいっしょに意識の改革を目指していくような側面、あるムードとかフィーリングで世の中を変えていこうとする志向っていうのは、パンクさえそう、ノーフューチャーというのは現実ではなく夢想だから、今となってはすごくおもしろいものに思えるんだけど、自分にとっては遠いものだったと再認識せざるを得ない。それでも愛とか希望とかはたまた絶望とかアイソレーションとかさまざまな夢を売る人たちのことが羨ましくずっと羨望の眼差しを向けていて、ようやく向かいあったときにはサブスク全盛期でもう実質的に終わってた。ロック的なリボルテ志向ってみんなで同じものを聞く、という経験に裏打ちされてたように思う。ジョン・ケージもレイブもそう。すなわちそれまで資本で分断されていた演奏者とオーディエンスの垣根を取っ払って、同じものを聞くという経験をみんなで共有すること。
『ポスト資本主義の欲望』(大橋完太郎訳) p.48-49より〈左派メランコリー〉についての注釈
左派が参照するウェンディ・ブラウンのもうひとつの重要な論考は「傷ついた愛着(Wounded Attachment)」です。「傷ついた愛着」は、今日の左翼の世界の緒側面を高いレベルで予言しています。ブラウンは「傷ついた愛着」内でニーチェを引用し、傷との関係でアイデンティティを定義するような仕方によって、ある種の左翼的欲望が動員されたと言い、その行程を示しています。左派が言うには、道徳主義は、
弱者の反動的な態度の支えとなるような感情を与える。弱者とは、「強者との対立において自らを定義する者たち」のことを指す。社会主義者による社会建設という前向きな計画が近年消滅するのにともない、左派的説教は、損傷や失敗、被害者であることへの投資額を増やすことによって、その活力を獲得してきた。権力が容赦なく支配的なものとなったとき、権力は左派がそこから遠ざからねばならないようなものとなる。そうしなければ、吸収されるか、あるいは妥協することになる。
つまり、ここで述べられているのは、権力それ自体が病理である、という考えです。権力の保持は圧政と切り離せない、したがって、傷つけられた惨めな状態になる方がマシだ、というわけです。
『悪魔のいけにえ』解説 (STUDIO VOICE 2008, 6 Vol. 390より)
ホラー全般が苦手なんですが『悪魔のいけにえ』は例外的に好きで、かつこのレビューはとても良い出来だと思うのでここで紹介します。以下。
「子ども時代は失われた」
『悪魔のいけにえ』
「赤頭巾ちゃん」のサイケデリック・ヴァージョンで、ジジェクがヒッチコックを素材にラカンの学説を逆検証したように、フロイディアンこそ自らの存在証明を賭けて解釈に取り組むべき映画でしょう。「子ども時代は失われた」というフロイトにトビー・フーパーはかなり肉薄しているし、だからこそ僕たちはこの映画からいつまでも離れられないのだから。青空の意味を理解できなかったリメイク版はまったく論外。(三田格)
(I can't stop loving you)
I've made up my mind
To live in memory of the lonesome times
(I can't stop wanting you)
It's useless to say
So I'll just live my life in dreams of yesterday
(Dreams of yesterday)