女性を消費するようなコンテンツが批判されるとき、作品に喚起されて具体的な犯罪が誘発されることを危惧しているというより、作品が体現している価値観や認識が現実社会の価値観や認識に影響を与えることを危惧している。
女性を客体化、モノ化する視点が受け入れらられることによって差別が助長・矮小化される、暴力が暴力と認識されなくなる、犯罪が犯罪と思われなくなることを問題にしていると思う。
例えば、強引なキスから恋が始まる展開が違和感のないものとして描かれることで、性的同意が軽視さる/性暴力が暴力と認識されなくなる、児童(未成年者)を拉致した犯人との"恋物語"が"純愛"として受け入れられることで現実に起きている児童への搾取が矮小化されてしまうなどなど。
つまりフィクションが個々の「犯人」に与える影響というより、ひろく社会の価値観・認識に与える(与えている)影響に対しての危惧であり批判だ。
まずはそこをきちんと別けて考えないと意味がないと思った。
https://bucchinews.com/society/7040.html
全体に面白く読んだけど、一か所、議論がかみ合ってないなと思った部分について。
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一方、フェミニスト側の主張としては、世の中にある女性を性的に消費するようなコンテンツによって、実際の女性や子どもが危害を加えられていると。
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この質問のやり取りで山本さんが話しているのは『ボーリング・フォー・コロンバイン』のような視点、つまりAという作品が具体的な事件の原因とされ、規制の対象になることの不当さについてだと思う。
『ボーリング・フォー・コロンバイン』が取り上げた銃乱射事件や、ジョーカーに扮した人物が事件を起こした京王線刺傷事件のようなケースに対してであれば、この議論は全く正当だと思う。仮に作品が事件のトリガーになったり、何らかの影響を与えていたとしても、だから作品が悪いとか「原因」だとするのは論理の飛躍だ。
けど、フェミニズム的な文脈でコンテンツが批判される場合、たいていはもうちょっと違う意味で「現実とフィクションの区別」について語っているのではないだろうか。
→続く