prajna13 さんがブースト

昔は大変だった、ではなくて、今現在も地続きで継続している問題を描いたドラマなのだ。
法は変わって来た。でも社会の方は変わりきれていない。だから、描かれている問題が「現代もこれじゃん」ってなる。
#虎に翼 #トラつば

prajna13 さんがブースト

明日採決が強行されるとしてもそれは衆議院の法務委員会でのことであって、その後衆議院本会議→参議院法務委員会→参議院本会議のそれぞれで審議と採決があるはずだから、明日の採決をもって法律が成立するわけではない。

けど、でもやべえのは間違いないから、騒ごう、できることをできるだけしよう


prajna13 さんがブースト

100にんくらいおるのに共産党の本村議員だけひとりでずっと質疑応答していて、立憲の米山議員が読み上げで何度か出てきて、賛成討論に数人出てきて、あとは採決でざっと立つだけの人たち。もちろん、殆どが男性。そして、この法案によって酷い目にあうのはほぼ女子どもですっていう。なんなんだろうな、これ。

prajna13 さんがブースト

アカデミー賞作品賞を受賞した『オッペンハイマー』。その映画の内容はこれから日本公開ですし、いろいろ記事もあがるでしょうから、そこに任せるとして、ひとつ覚えてほしいのは、エグゼクティブプロデューサーに「ジェームズ・ウッズ」が関わっていること。ジェームズ・ウッズは熱烈なドナルド・トランプ支持者で、イスラエル支持者。『オッペンハイマー』がどんなに反核兵器のメッセージを込めていても、そんな人物がクレジットに加わっていることは映画を台無しにするものではないでしょうか…
newsweek.com/full-list-celebri

prajna13 さんがブースト

毎日新聞、送検は「暇空茜」と断定。

「Colabo」への名誉毀損疑い 「暇空茜」名乗る男性を書類送検 | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20240216/

政府に従わない人は日本人じゃない、みたいな感じ?なのかな。
心の中では独裁国家に住んでるんかな。

prajna13 さんがブースト

選挙めんどいから行かないと言った29歳多分シス女性の方
相手「まおちゃんはどこにいれるの?」
ぼく「勝てそうな野党候補、立憲共産社民れいわのどれか」
相手「結構ガチなんだね」「日本人じゃないの?まおちゃんは」
😨😨😨

「生きてるだけでいっか」と思う日が来るのかはまだ良くわからないけど、「生きてるだけでいいか」と思える瞬間みたいなのはちょくちょく去来するようになったので、しばらくはこれで行こうと思っている。

そんな風に思えるようになってきたせいなのかはわからないんだけど、最近はあまり「私は生きていていいんだろうか」という気持ちが湧く機会は少なくなってきた。

いつもいつも自分の中にある負の感情に「お前は必要ない」とレッテルを貼り、邪険にして、居ないように無視してきたんだから、その下にある、本当はこう思っているんだ、という声なんか聞こえるわけなんて無い。
果てには自分の中の生命力みたいな、生き生きした何かも枯渇してしまうよね。感動する気持ちとか、喜びとかも。

ずっと、自分の感情の声に耳を傾けてこなかったし、
ずっと、気持ちに蓋をして無かったことにしてきたんだな、と気づいた。
そりゃあ、抑うつ状態になってぶり返したわけだ。

自分の色んな感情を書き綴っていくだけなのだけど、ただただ人目を気にせずに赤裸々に書いているだけ。もちろん人には見せないし見せる必要もない。理路整然と書く必要もないし、繰り返し嫌だったことを書いても構わない。

それと、何かの「ためにする」ことをやめた。やめたというより、できなくなってきた。まだ一月半くらいなのだけど、最初のひと月はあっという間にノートのページが無くなった。

こんなにたくさんの感情をためてたのか。
こんなに色んなことを感じていたのか。
こんなに不安だったのか。
こんなにコントロールしたいとおもっていたのか。
こんなに…、こんなに…。
きりがないからやめるけど、びっくりするぐらい、色んな感情がどぎついものから軽やかなものからなにから何まで出てくるんだ、って気がついて、私はずっとその声を聞いていなかった事に気がついた。

もうあらかたやり尽くしたと勝手に思っていたのだけど、やっていないことがあるのがわかった。たまたま見た動画がめちゃくちゃ響いた。これだ、と思った。
それが昨年末から年始にかけてのこと。

私は、なんの制限もなく自分の感情をただ表現するということをやってなかった。

それをSNS上でやる必要性は感じなかったので、とりあえず手元のノートに良いも悪いもなく感情を書き出すことにした。
それを書き出したからって自分をまた振り返ってジャッジとかもしない。

何度も何度も繰り返し出てくる負の感情も、楽しいことも、不安も、悲しさや悔しさも、嫉妬も羨望もただただノートに書くのだ。
そして破って捨てたりもしない。

ただ出てきたものを自分の一部なんだと認めていく。
それだけ。

なので、もうこれ以上はこの気分は誤魔化せないだろうと感じるようになってからはじっとしていた。ただしのいでいた。

それでもやりたいことの燃えカスみたいなのは残っていたので、それらも一つ一つやってみた。料理はそこそこ上手くなったし、あちこち趣味になりそうなものに取り組んでみたけど長続きしない。人間関係が不得手なので多くの人と交わるのも違う。政治的な働きかけもある程度はやったけれど、それも後に残ったのは虚しさ。
そんな風になってしんどいことは手放した。

それでもなんとか奮い立たせてみたり、夢中になることを見つけてみたりしてなんとか生きていたけれど、いっこうにそれは解消されなかったし、何かが満たされようと満たされまいと、何かがもっと必要だという気分になるだけ。

生きていていいんだろうかという気持ちが最大になった時はかなりきつめの鬱になったし、その後はまた鬱にならないように過ごしていたけれど、それでも再び数年前には抑うつになった。

そんな風に考えなくてもいいという声は確かにその通りだったけど、生きたいのに生きられなかった人からすれば、生きていることは贅沢な悩みなのだと比較される事が多かった。
死ぬ気になればなんでもできると言われたりもしたが、励ましているつもりなのかもしれないが、そういうのと私のしんどさは微妙にいつもずれていて、しんどいと思うことは解消されなかった。

本当につい最近の事だけれども、私は自分が生きて良いのかどうかを考えることを止めにした。

苦しい時には苦しいというし、
さみしい時にはさみしいというし、辛い時には辛いというようにした。
誰かに向かって言うわけじゃない。
ノートに向かってただ書く。いう。

正しいかどうかも考えないし、
自分に変化を起こすために、とか、
自分に向き合う、とかでもなく、
ただ書き綴るようにした。

おそらくは幼馴染が病気で亡くなった時点がきっかけだと思うけれど、ずいぶん長い間私自身は自分が生きていて良いのかどうかということを悩む、みたいな状態に陥っていたと思う。

そんな事を考えずに生きていけばいいじゃんという声もあったし、生きていけなかった人はそんな事考える余地も無かったよと言われても、それでも内側にある苦しみや辛さは無くなることがなかった。

つい最近まで苦しかったし辛かった。

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