何度でも言うけど、シオニズム批判、イスラエル批判をユダヤ人批判、ユダヤ国家建国批判に転化させてはダメだと思う。
そもそも、イスラエルの建国ひとつとっても、欧米の植民地主義だけに原因を求めることは到底できない。最大級のジェノサイドだったホロコーストへの反動/対応としてのユダヤ国家建国熱の高まり抜きには理解はできないし、「どこの国も守ってはくれなかったのだから、どんなことをしてでも自分たちの重武装国家を作る」というユダヤ人たちの意思を否定することもできない。
100%の悪人も100%の善人もおらず、それでいて大量の殺人があり、それを止めねばならないというややこしい状況を呑み込んで、歯切れ悪く、それでも強く主張するしかないのだ。
図式の単純化は同様の悲劇の種を再び撒くことにほかならない。
どーしよーもないダブルスタンダードな国ではあるが、個人としては至極真っ当で肝が据わってる人が一部にいるってのは事実だよな。
女性1人が生涯に産む子どもの推定人数「合計特殊出生率」が、22年は島根1・57(全国4位)に対し、東京都は全国最低の1・04だったことを念頭に「東京都が頑張っているから人口が増えているのか。そうではない。出生率は(全国で)最低だ」と述べ、経済界などを含めて東京一極集中の是正を進めるべきだと強調した。 さらに、大学などの教育の在り方が少子化に影響している可能性を指摘。中教審の会合で慶応義塾大学塾長が国公立大の授業料を私立大並みの年間約150万円程度に値上げするよう文科省に提言したことに触れ、「対応できる人が日本社会にどれだけいるのかを考える想像力がない。日本が滅びる方向に進むことの危機感がない表れだ」と批判。「(慶応大創設者の)福沢諭吉先生はもう、草葉の陰で泣いていると思う」と話した。
いやもう本当…「民間組織『人口戦略会議』(名前がもう嫌)が消滅可能性自治体のリストを公表した」ってもう始まりからして何それ嫌なんですけど。おかしいよ。
消滅可能性自治体の定義も気持ち悪いし。
消滅可能性自治体公表 丸山知事「日本全体の問題を市町村の問題にすり替えている」「東京の出生率は最低だ」人口偏在放置を批判|山陰中央新報デジタル https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/564877
民間組織「人口戦略会議」が将来的に消滅の可能性がある自治体を発表したことを受け、島根県の丸山達也知事が24日の定例会見で「日本全体の問題を自治体の問題であるかのようにすり替えている。アプローチの仕方が根本的に間違っている」と指摘。「市町村単位で問題を置き換えて考えることがナンセンスだ。市町村のマルバツを付けて物事を見るのは正しい見方ではない」と批判した。
人口戦略会議は同日、消滅の可能性がある全国744自治体を公表。島根県内は、2014年前回調査で該当した12自治体が今回は外れる一方、雲南市や奥出雲、津和野、隠岐の島町の4自治体が含まれた。丸山知事は「人口減少は市町村や県単位の問題でなく、都市部に人口が集中する日本社会の構造を放置してきたことが引き起こしている現象だ」と述べ、国全体の問題として捉えるべきだと主張した。
そーいえば、数年前にカジノの話題が出た時に、株式投資クラスタでは、そんなの後発がやったってラスベガスとかマカオの企業みたいなノウハウねーんだからうまく行くわけねーだろ、って話になったけど、
ここに出てくるジャンケットみたいなのもそういうノウハウの一つなんだよな。
https://gigazine.net/news/20240424-google-search-downfall/
落選者が5年前の選挙名簿で「繰り上げ当選しましたよ〜」って急に言われても困る。5年も経ってると流石に状況は変わるし、環境の変化とか。
市井紗耶香の「子育てと選挙活動の両立をしていくことの厳しさ」っていう思いは受け止めるべきであり、これは見過ごしちゃいけない課題。
「男性は仕事に専念し、女性は家事や子育てに専念を」みたいな価値観が未だに残ってるから両立が難しいのでは。
女性政治家が増えないことには政治家の働き方も影響している。
国会議員の場合、東京と選挙区の往復が当然で、夜も会合となれば家事、子育て、介護との両立はしにくい。
にもかかわらず、男性政治家の場合、政治活動・選挙活動できるのは家事も子育ても自分の奥さんとか家族に任せているからだろう。
空気を読む。そんなものに時間はかけたくない。世の中に合わせるなんて、くだらないと大学時代思っていた。だから、就職しなかった。でも、実際にどう生きたら、いいか分からなかった。
インドに友達と二人で旅に行った。打ちのめされた。自分はまだまだ甘い。現実を知らないと思った。帰って来たら、病気の自分に気づいた。周囲に甘えで病気なんだと言われた。でも、周囲は母以外、精神科の病院に行くことをいさぎよしとしなかった。
結局、病状が悪化して、入院した。入院した当初、精神の病気になった自分自身が恥ずかしかった。でも、それは自分が精神の病気の人たちを差別していることがもとであることを看護師に指摘された。何も恥ずかしいことではないと。
病気の人たちとの交わりは私の固くなった心を解かしてくれた。精神障害者であることが私には何か自分自身であることを許してくれているかのようだった。何よりも自由がそこにはあった。
私が守りたいものは、この自由だ。自分自身でいられる自由だ。やはり空気を読むだのくだらぬことだと思う。世の中は変えなくてはいけない。迎合することが賢いことなら、私は、バカになる。