社会の党派的分断が最近起こったことであるかのように語られているの、珍しくもないありふれたものだが、目にするたびに驚く。
「現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。」(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸 https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
立民代表選、吉田晴美氏が出馬に意欲 党内の中堅・若手に「男性のベテラン議員ばかり」と危機感:東京新聞 TOKYO Web https://www.tokyo-np.co.jp/article/349768
『私の殺した男』(1932、エルンスト・ルビッチ)
今日見た映画の出だしのところがすごかった。オープニングクレジット明けの最初の5カット目までテレビ画面を写真に撮ってしまった。
1 凱旋門をバックに第一回第一次大戦急戦記念日 の字幕
2 祝砲が撃たれる
3 教会の鐘が鳴らされる
4 歓声を上げる人々
5 兵士たちのパレードを片足の無い人物の足元の隙間から捉える。
この間10秒もないと思うけど、この5カット目のインパクト、衝撃的だった。
無声映画から有声映画に切り替わった初期らしい視覚的な語り方と、戦争で片足を失った男の姿を直截に見せるプレ・コード時代らしい表現、、すごい。
お話は、戦場で敵兵(ドイツ兵)を銃剣で刺殺した元フランス兵が良心の呵責に苦しんだ挙句、その殺したドイツ兵の家族を訪ねて贖罪を求めようとする物語。最後はなんともやりきれないところに放り出されるところで終わってしまう。ええ、そこで終わるの??というところで終わるのも昔の映画の油断のならないところ。
私の殺した男(字幕版) https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09KQZGJ4T/ref=atv_dp_share_r_tw_a5775c5cb1ac4 [添付: 5 枚の画像]
アメリカン・ニュー・シネマはほとんど通ってなイノで具体的なことは言えないけど、ヘイズ・コードによる規制の時代を抜けてそれまでより自由にいろんな表現が行われるようになりましたというような事は曖昧な知識として持っているので、そんな言うほど性や暴力の表現はなかったとか今と比べたら大した事ないみたいな話されても全然乗れないな。
ダーティ・ハリーが好きなら好きでそのことを熱く語った方が面白いと思うんだけど、それはどうでもいいってなってるところがますますわからない。
北村さんの批評は面白いし勉強になるので読むけど、同時に自分が映画のこういうところが好きなんだよなっていう側面に北村さんが全然興味がなさそうなのもわかっている。『ダーティ・ハリー』評のそっけなさもそういうところかなと理解している。
ニュー・シネマ時代になってむしろ白人男性中心的な傾向が強まった評価になっているというのが一番ほおっってなった部分かな。やっぱり50年代のハリウッド映画って面白いよねと我田引水的感想を持った。
『冬の旅』(1985、アニエス・ヴァルダ)
アマプラに出ているのに気づいて観た。
装飾的な映像美とは対極にある冬の凍りついたような畑や葉の落ち切った木の細くて刺々しい枝とかほとんど晴れることのない天気とか、映画全体が持ってる触覚に触れてくるようなざらっとした感じが好きだな。劇場で見たらもっと良かっただろうなと思うポイント。
あまり防寒の役に立ちそうにないペラペラの赤黒の模様入りのテントとリュックを背負って特にこれという目的もなさそうに彷徨う若い女に、時々壁と屋根のある寝床と飯を善意で提供する人が現れるが、なぜかそれらと共に労働が一緒に与えられる。でも労働が続かない彼女は間もなく追い出されるか自分からどこかへ行ってしまう。という展開が繰り返される。そこで感じるザワザワした感じをどう捉えたらいいのか。
あと、あのブーツとか、手首に巻いていた皮のベルトとか、
気になるポイントはいろいろある。また観たい。
しばらく行ってないけど、当分行かないかな。>スタバ
QT: https://rss-mstdn.studiofreesia.com/@cnn/113015850748678890 [参照]
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