今日の東京新聞の女子大とトランスジェンダーの記事、相変わらず奥野さん(たち)の丁寧かつ熱量ある取材がベースになっていてよかったです。
他方で、これは当該記事に対する意見ではなく、より一般的なこととして、「○○女子大学が女性を自認する学生を受け入れ」というような表現は、もういい加減マスコミで使うべきでないと思います。理由はいくつもあります。例えば…
・理由1)「自認する性別」という概念は、トランスの人たちにしか適用されない謎概念である。
・理由2)「自認する性別」という言葉を使うことで、トランスの人たちの生活実態が適切に伝わることはおそらくなく、むしろ誤った印象を受け手に与えている。
・理由3)女子大サイドの決定は「入学条件から戸籍の表記が「女」でなければならないという条件を外す」という角度から理解されるべきもの。
・理由4)女子大を受験するトランスの学生から見えている風景としては「戸籍の表記を理由とした入学拒否を撤回」の方がはるかに実態に即しており、そうした排除が存在してきた来歴があり、今も社会のいたるところでその種の排除にトランスの人たちが苦しんでいるという事実を覆い隠してしまう。
いくら場が「荒れる」ことだろうと、正しいことを言っているのだから好きなだけ主張するというのは、確かに個人でやるぶんには結構なことだけれど、それが集団のうねりになった結果として「荒らされてしまった」場所で、誰がもっとも傷つくことになるのかとか、そうやって場所が「荒らされた」ことで生まれる傷をケアするためのコストが誰にしわ寄せとして向かうことになるのかとか、まったく想像しもしないのは一体どういうつもりなのか。そんなことは考えるつもりも考える責任もないと言うのなら、もうマイノリティの状況になんて関心がないとはっきり言えばいい。社会運動における「ケア」の問題がこれだけ認識されているのに、どうしてそんな非難の濁流のようなことを続けられるんだ。
ふと思う、人はなぜ小説を投稿する/書くのだろう(商業を目指す場合)
私がぱっと思いついたのはこんな感じです。
1. 腕試し
2. ○○(任意のジャンル)小説家になりたいから
3. 文章を書く副業・本業を持ちたいから
4. 制作が楽しいから
5. 人を喜ばせたい、驚かせたいから
6. 特定の表現/問いを世に出したいから
https://digital.asahi.com/articles/ASR8H6VDYR84UPQJ00W.html?ptoken=01H8X89C896NV870V22NB9Y5JG
国の対応とネットでのバッシングは本当におかしいので、是非読んでほしい。