障害者雇用の場合、障害者側に仕事を選ぶ自由はないから、その企業がどれだけ社会的に評判が悪く倫理に反した業態であっても辞退することができないという事実がある。代わりの職場が見つかる可能性は極めて小さいので収入を得るためには内定が出たところに取り敢えず入社しなければならない。
そういう意味で、障害者は「地元最高!」の底辺ギャルたちと大して変わらない。
寄ってたかって殴られるというのは、中学生で米国から日本に帰国して最初の1ヶ月はそんな感じだったので、他人事ではないというか、あの私をわっと囲んで誰が誰だかわからんような状態で集団でひとりを殴りつける時の一人一人の表情とか思い出すんだよな。楽しくて仕方がない、かつ何かに憑かれているような顔。一対一ではない、集団に埋没して暴力を振るう楽しさみたいなものを日本の社会はいまだに保持していると思う。
一人ずつ呼び出してやり返したんで半年後には無くなった。しかし今でもその陰惨な、自分も含めてとても嫌な気分になるし、いまだに集団でつるんでその勢いで乱暴になる日本の日本人になんとなく警戒を解くことができない。日本で就職もせずフラフラしているのはその必要をあまり感じないからではあるが、背景に幾許かはその影響がある。
今日の東京新聞の女子大とトランスジェンダーの記事、相変わらず奥野さん(たち)の丁寧かつ熱量ある取材がベースになっていてよかったです。
他方で、これは当該記事に対する意見ではなく、より一般的なこととして、「○○女子大学が女性を自認する学生を受け入れ」というような表現は、もういい加減マスコミで使うべきでないと思います。理由はいくつもあります。例えば…
・理由1)「自認する性別」という概念は、トランスの人たちにしか適用されない謎概念である。
・理由2)「自認する性別」という言葉を使うことで、トランスの人たちの生活実態が適切に伝わることはおそらくなく、むしろ誤った印象を受け手に与えている。
・理由3)女子大サイドの決定は「入学条件から戸籍の表記が「女」でなければならないという条件を外す」という角度から理解されるべきもの。
・理由4)女子大を受験するトランスの学生から見えている風景としては「戸籍の表記を理由とした入学拒否を撤回」の方がはるかに実態に即しており、そうした排除が存在してきた来歴があり、今も社会のいたるところでその種の排除にトランスの人たちが苦しんでいるという事実を覆い隠してしまう。