ポストカードタイプの絵と文が1枚に合わさった創作小説「へし折り斬り伏せ」を、個人サイトにて連載しています。 #へし折り斬り伏せ
いつも唐突に「エリオット」とか「ロードさん」と口にしますが、その二人はこの小説のキャラクターです。
質問に答えてくれるAIから引き出される返答を「便利だ」と評価している人がそこそこいて、わたしも「自分が調べてくることよりそれらしい」と思っているのですが、自分にとってそこそこ知ってる分野での返答だと「それ違くない?」と笑ってしまうこともしばしばあって。
で、こういうことがあると「自分が調べてくるよりそれらしい返答だ!」と信じてしまうことについてぞっとして、つまりAIによる生成物は「自分に正誤を判定できるだけの素養がないと使えないのかも」と思うようになってしまいました。
人生初のガチマッチ(バンカラマッチ)を遊びました。
ガチはやっても凹むから初手でお断りする人生でしたが、家に来てくれた小学生が普通に誘うもんだから普通に受けちゃった…
ガチホコの爆発でやられた!とか出てきて「うっそwww そんなんで死ぬのwww」とか笑ってました。ナワバリの癖で自陣塗ったりしてました。
頂上を目指す人たちを眺めていると実に活気があり、有意義な交流と価値の高い品々を眺めて(時には手に入れて)エネルギーをもらっていたのですが、最近ではエネルギーを得られる回数が減ってしまっています。
収集癖を満たすことで諸々の苦難を乗り切る力を得られていたため、ドールとそれにまつわる趣味はまさに「人生に欠かすことができないもの」でした。
収集が実質ストップしてしまうと、入手できる見込みがないという目で見るため、品々に価値を感じづらくなってしまうでしょう。眺めているだけでも元気を得られる状態すら手放すことになりそうですが、では「このままであれば」いつまでも元気が得られる永久機関なのか?というと違っている気がします。
生後半年程度の乳児育児が手に余る日々が続いた時に、偶然ボークスのクロードを直に見る機会があって完全に男性ドールの魅力に堕ちてから当時使える手段のみでお迎えしたのがこの方です。
そこから6年、今思えば長い収集癖の始まりでした。お人形も、パーツも、小物も、服も。でもそれもほぼほぼ終わりそうです。山の頂上ではなく、中腹にも至らない地点で、登山のつもりでやっていたピクニックの最終地点となりそうです。
異性愛者でも「結婚に不利な属性がありながら苦労の末結婚できた人」が結婚決まった途端「◯◯でも結婚できた僕によるハウツー5選!」とかやっちゃうのしばしば見ますからねえ。
人事を尽くすことはできますが全ては縁。
スタバの顔ってシュガーカットっぽくないですか?