今日はいちにち具合がよくなかった。身体はそうでもないが、気持ちが焦りすぎてめちゃくちゃ。持ち帰りが多すぎて優先順位をつけられずマゴマゴしているうちにマックスの波が来たので頓服をのみ昼寝をした。身体もやや疲れている。ほんとうは考えず、のびのびやって、できなかったらあーそーですか〜へへへ!でいいんだと思う。でもそれができない。それやって許されるのはわたしではないんだ。他の人なら許されるんだ。そしてそれをすることを許せない。自分も、他人も、等しく許せない。ADHD Justiceとは少し違うと思うけど、まあそれは置いといて、不平等であることそのものが信じられなくて、白線を越えてしまいそうになるのだった。わかるか。
2024年11月27日|mnemosyne https://sizu.me/mnemosyne/posts/z15e1dhctme1
@n_d_mnemosyne わたしはADHDとASDのどっちもよく特性がしっかり出てると思う。昨日の自分を、なんなら五分前の自分を信頼できないままに生きるということがどういうことかというと、その場に必要になる可能性があるなら全て持って行く(大荷物)だよ。素直だし、なんでも信じる。だからわたしを騙してはいけないんだ。
「こういうことをしたい」をかなえるには下地がいるし、耕してない畑に種をばら撒いてもからすが食べちゃうだけ(使えるところを持っていかれるだけ)、わかっているのに、何回も嫌な思いをして、やりきれない夜を過ごしてきたのに、わたしは献身が使命のようなものだからやってしまう。やりたくない、ふわっと逃げたい。だけどわたしは跪き、項垂れ、受け入れてしまう──受胎告知のようにな!くそがよー。でもマリアさまはそんなこと言わない、で受け入れてしまう。子供の頃に、それもまだ幼稚園のうちに、そんなことを習ってしまうのは罪だよ、でもわたしは、そうでなかったらもっともっと早くに、みずから死んで、かえらなかっただろうとも思う。だからさーー!!わたしが今生きてるのを寿いでほしい。あらざることが起きているのだと、ひとひとりがここまで生き延びたのは本来なら奇跡なのだと──いやほんとに、そのうち一回は低体温すぎてまずかったという話なので……おおむかしなら奇跡なんです。だからわたしを搾取してはいけない。奇跡そのものが在るのだから。
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