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実家にもものがまったくなく(あるいは実家自体もなく)、自分の家の中もほとんどものがない人が、ほんとうの意味でのミニマリストなんだろう。

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収集癖がある人、家にものが多い人、ものを捨てられない人の話を聞いていると、実家という倉庫がない/実家というクラウドサービスに登録していないだけだったりする。バックアップを外付けする場所がないから、自分のなかに自然、ものが増える。ほかにもそういう人を見てきたけど、主なソースはわたし。

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実際のところどうなのかはわからないけれど、ミニマリスト(あるいはミニマリストだと自認している人)は親とうまくいっている(あるいは実家に帰れる。実家がある)場合が多く、逆にものが捨てられない、ものを溜め込む、収集癖のある人は親とうまくいっていない(あるいは実家に帰れない。実家がない)場合が多いように感じる。

ミニマリストを自称する人などと話していると、実家にものがたくさんある/実家にものを置いている/(あるいはひどい言い方になるが)実家という大荷物を抱えていることが多い。

だめだもう寝ないと。仕事に追われたりサボったりしていてここ数日お風呂に入ってないけど朝入ればいいや。

そのせいなのか、そのおかげなのかはわからない(というか捉えようによる)けれど、だから幼少期〜20代前半の時期もそれなりに楽しく過ごせてきた。でも、それによる煩悶もすさまじいものがあって、つらくなったりもした。「だからわたしは(トランスジェンダー)女性ではない」という自己否定の材料が当時の自分としてはあまりにも揃いすぎていた。

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わたしは、「男性っぽさ」を好む女性、という意味でとても女性的なのだけど(ボーイッシュ、という言葉が女性にしか適用されないように)、わたしがトランスジェンダーなせいで他者から見たらそれがとても複雑に見えることがあるらしく、いわゆるステレオタイプ的な「トランスジェンダー」という鋳型からはみ出まくっているわたしにバグり散らかすさまを幾度となく見てきた。

トランス当事者で作家として活動している/してきた先達も、こういうことで悩み、もがき続けてきたのだろうか。と、思いを馳せたりもする。

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自分の作品が「トランスジェンダー」というタグ付けで広まったり評価されたりすることにも思うところがある。わたしがわたしとして作品をつくり、発表していく限りにおいて、たしかにそれは間違っていないのかもしれないけれど、例えばSNSでわたしをフォローしてきた人のプロフィールや投稿を覗いたりしたとき、「トランスジェンダー差別に反対します」ということと「フェミニスト」ということしかわからないようなアカウントだとわたしはどことなく悲しい気持ちになる。もちろん、知ってくれるのはうれしいし、読まれるのは喜びでもある。けれど、と。

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「うちにはこどもが3人います。おれとあんたと一人娘で〜」「グーチョキパーで三竦み。チョキがなかなかむずかしくって、握る力がつけばつくほどに手放すことを忘れてく」と歌う東郷清丸によって、幼い娘であった(はずの/かもしれない)昔の自分、そして幼い息子であった(はずの/かもしれない)昔の自分、どちらともが癒やされていく。

「そういう可能性もあった」という想像力と憑依で勇気をもらったりやさしくなれたり救われたり癒やされたりしていく。これからもしていくだろうし、これまでもそうだった。

歌詞に、物語に、トランスジェンダー(と思しき人物や比喩表現)が出てくるものは、当事者である自分にとってはいわば劇薬のようなもので。それだけで強烈に引き付けられる、共感というより共鳴に近い激しい没入を余儀なくされる。個人的にはそれが自分にとっていい具合に作用するときとそうではないときがあるな、と思っていて。感情に広い射程を持たせるためには、そういうものばかり摂取していては視野狭窄になっていくだけだぞと思ったりもする。もちろん世の中にトランス表象を用いた作品が増えるのはいいことだけれど。と、考える日々。

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music.apple.com/jp/album/あしたの讃

いい曲だな〜。歌詞ひとつひとつがやさしい。最近は工藤裕次郎と東郷清丸ばかり聴いて癒やされている。

高校生のころ、藤野千夜『少年と少女のポルカ』を読んで衝撃を受けたな……ということをふと思い出した。

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トランス関連の本、折に触れては購入しているのだけど、なかなか読む気持ちになれなくて積まれていく。

声を大にして言うことで聴こえなくなるであろう小さな声が聴こえるように声を出す。出していたい。

今日が夏至だと勘違いしていて「夏至らしい気持ちいい天気やねえ……」とほっこりしていた。明日だ。

お悔やみ欄もほんと、いいんだよな。しみじみ、いい。いろんなレイヤーの「よそさま」が集約されて新聞という紙の束になっている。数日前は、購読している新聞の投稿欄に掲載されていた70代のおばあちゃんの日記が良すぎてぽろぽろ涙を流してしまった。

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紙の新聞購読者の年齢層とわたしの年齢がたぶん全然重なっていなくて、広告がほんとうに他人事&どこか安穏としているのもいい。都心部の電車広告のあのひたすらに焦燥感と向上心を煽ってくる感じなんかとは対極だと思う。しんどいニュースまみれのこんな時代こそ紙の新聞ですよ。ほんとうに購読契約してよかった。

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紙の新聞を購読し始めてしみじみと実感しているのだけど、紙の新聞くらいが世間や社会や世界の情報との一番しあわせな距離感なんだろうな。ネット/SNSと紙の新聞とで、同じニュースでも受け取る近さが違う。紙の新聞だと不思議とどのニュースも穏やかに読める。

適切に「よそさまのできごと」として読めるのだろうな。SNSみたいにリンクを貼ったりスクショしたりして引用して物申せる媒体ではないから、しぜんと口をつぐむしかなくなる。黙って考える/一旦受け止めることになる。それがいい。そしてひとり静かに、ハサミで切り取って糊で貼ってスクラップしていく、と。

そういうものに、わたしは、なりたい……………………。

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