実際のところどうなのかはわからないけれど、ミニマリスト(あるいはミニマリストだと自認している人)は親とうまくいっている(あるいは実家に帰れる。実家がある)場合が多く、逆にものが捨てられない、ものを溜め込む、収集癖のある人は親とうまくいっていない(あるいは実家に帰れない。実家がない)場合が多いように感じる。
ミニマリストを自称する人などと話していると、実家にものがたくさんある/実家にものを置いている/(あるいはひどい言い方になるが)実家という大荷物を抱えていることが多い。
わたしは、「男性っぽさ」を好む女性、という意味でとても女性的なのだけど(ボーイッシュ、という言葉が女性にしか適用されないように)、わたしがトランスジェンダーなせいで他者から見たらそれがとても複雑に見えることがあるらしく、いわゆるステレオタイプ的な「トランスジェンダー」という鋳型からはみ出まくっているわたしにバグり散らかすさまを幾度となく見てきた。
「うちにはこどもが3人います。おれとあんたと一人娘で〜」「グーチョキパーで三竦み。チョキがなかなかむずかしくって、握る力がつけばつくほどに手放すことを忘れてく」と歌う東郷清丸によって、幼い娘であった(はずの/かもしれない)昔の自分、そして幼い息子であった(はずの/かもしれない)昔の自分、どちらともが癒やされていく。
「そういう可能性もあった」という想像力と憑依で勇気をもらったりやさしくなれたり救われたり癒やされたりしていく。これからもしていくだろうし、これまでもそうだった。
歌詞に、物語に、トランスジェンダー(と思しき人物や比喩表現)が出てくるものは、当事者である自分にとってはいわば劇薬のようなもので。それだけで強烈に引き付けられる、共感というより共鳴に近い激しい没入を余儀なくされる。個人的にはそれが自分にとっていい具合に作用するときとそうではないときがあるな、と思っていて。感情に広い射程を持たせるためには、そういうものばかり摂取していては視野狭窄になっていくだけだぞと思ったりもする。もちろん世の中にトランス表象を用いた作品が増えるのはいいことだけれど。と、考える日々。
https://music.apple.com/jp/album/あしたの讃歌-彡-live-at-晴れたら空に豆まいて-東京-2023/1686915973?i=1686916891
いい曲だな〜。歌詞ひとつひとつがやさしい。最近は工藤裕次郎と東郷清丸ばかり聴いて癒やされている。
トランス関連の本、折に触れては購入しているのだけど、なかなか読む気持ちになれなくて積まれていく。
紙の新聞を購読し始めてしみじみと実感しているのだけど、紙の新聞くらいが世間や社会や世界の情報との一番しあわせな距離感なんだろうな。ネット/SNSと紙の新聞とで、同じニュースでも受け取る近さが違う。紙の新聞だと不思議とどのニュースも穏やかに読める。
適切に「よそさまのできごと」として読めるのだろうな。SNSみたいにリンクを貼ったりスクショしたりして引用して物申せる媒体ではないから、しぜんと口をつぐむしかなくなる。黙って考える/一旦受け止めることになる。それがいい。そしてひとり静かに、ハサミで切り取って糊で貼ってスクラップしていく、と。