「うちにはこどもが3人います。おれとあんたと一人娘で〜」「グーチョキパーで三竦み。チョキがなかなかむずかしくって、握る力がつけばつくほどに手放すことを忘れてく」と歌う東郷清丸によって、幼い娘であった(はずの/かもしれない)昔の自分、そして幼い息子であった(はずの/かもしれない)昔の自分、どちらともが癒やされていく。
「そういう可能性もあった」という想像力と憑依で勇気をもらったりやさしくなれたり救われたり癒やされたりしていく。これからもしていくだろうし、これまでもそうだった。
歌詞に、物語に、トランスジェンダー(と思しき人物や比喩表現)が出てくるものは、当事者である自分にとってはいわば劇薬のようなもので。それだけで強烈に引き付けられる、共感というより共鳴に近い激しい没入を余儀なくされる。個人的にはそれが自分にとっていい具合に作用するときとそうではないときがあるな、と思っていて。感情に広い射程を持たせるためには、そういうものばかり摂取していては視野狭窄になっていくだけだぞと思ったりもする。もちろん世の中にトランス表象を用いた作品が増えるのはいいことだけれど。と、考える日々。
自分の作品が「トランスジェンダー」というタグ付けで広まったり評価されたりすることにも思うところがある。わたしがわたしとして作品をつくり、発表していく限りにおいて、たしかにそれは間違っていないのかもしれないけれど、例えばSNSでわたしをフォローしてきた人のプロフィールや投稿を覗いたりしたとき、「トランスジェンダー差別に反対します」ということと「フェミニスト」ということしかわからないようなアカウントだとわたしはどことなく悲しい気持ちになる。もちろん、知ってくれるのはうれしいし、読まれるのは喜びでもある。けれど、と。