このオンライン署名に賛同をお願いします!
松本人志氏の復帰やめて !性加害者の起用には絶対反対です。性暴力に寛容な業界の体質を変えてください
1.性加害は重い人権侵害だから
2.謝罪文と言えるレベルではなくあまりに不誠実だから
3.報道の振る舞いも非常に不誠実なものだから
4.何ら説明責任を果たしていないから
5.性暴力に対する甘い対応は全ての被害者に対する二次加害になり得るから
https://www.change.org/p/松本人志氏の復帰やめて-性加害者の起用には絶対反対です-性暴力に寛容な業界の体質を変えてください?utm_source=share_petition&utm_campaign=psf_combo_share_initial&utm_term=psf_combo_share_initial&utm_medium=twitter
「金より生きがい」は本当か。氷河期世代、孤独な男性が不幸な現実【幸福度調査】
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ffc936abbd4d245ff9f78d04f82ccb0453e9336
生きがい搾取キタ…
毎日新聞にて #レディース服にポケットを 署名運動と11/23(土)のポケットのある服フリマについて取り上げていただきました。
「ポケットない女性服」は当たり前じゃない フリマ開催で不便解消へ | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20241113/k00/00m/100/120000c
レディース服のポケット問題は「コストがかかる」「もうある」等の話題でループしがちですが、現状そもそも既存のポケットつき服ですら、消費者が探し出す導線が整備されていません。
「ポケットあり」と明記されて並ぶフリマはおそらく初です。「探しやすさ」を実感する時間になればと思います。
そろそろ500名に到達します🔥🔥
すごいことになってきた。
https://mybodymychoice.peatix.com/ [参照]
蛇足を承知で書いておけば、呉座さんの件の問題は、呉座さんのやったことは確かに悪いけれど、それがここまでことが大きくなったのは、呉座さんと共に悪いネット遊びに興じていた「クラスタ」「界隈」あってのことでした。同じように反省せねばならぬはずの彼らが、逆ギレして暴走したのです。
呉座さんに道を誤らせた責任のある「界隈」「クラスタ」が、呉座さんの誹謗中傷の被害者を、まるでそちらが加害者であるかのようにフレームアップする二次加害を加え、それに対抗措置を取ればさらにネットでスクラム組んで叩く。顛倒したネットの屁理屈に巻き込まれ、呉座さんは無為な訴訟をします。
なるほど「界隈」「クラスタ」は、ネット上では自分たちに有利なイメージを一定瀰漫させることに成功しました。しかしそれはSNS上の陣取り合戦で、実際の社会や生活にはほとんど影響を与えない空間での勝利という、本質的に空しいものでしかありません。学問はネット上で行われるものではありません。
もともと西欧啓蒙思想に親和的で、JSミルの「自由論」は実は座右の書なんだけど、ミル(というか西欧啓蒙主義一般)が表現の自由擁護の根拠として挙げる「思想の自由市場」っていう概念はこと政治的言説に関する限りは完全に間違ってると認めるしかなくなってるよなあ。
科学技術の論文とかなら、「飛行機の飛ばし方」が間違ってたら現に飛ばないんだからそりゃ真実が勝利するんだろうけど、即座に一対一対応で正しさが明らかにならない政治的主張だと、真実性よりもそのときに人目を引く言説が有利で、むしろそれは真実であるよりも嘘のほうがより広まりやすい、とさえ言えるんじゃないのかね現状見てると。
そりゃあいろんな失敗を積み重ねればいつの日か穏当な政治的言論が真実であった、と認められるときがくるのかもしらんけど、その前に人が死にすぎるし認められるときはとうとう来ない可能性すらある
「誰に投票していいかわからない」「なにもわからない自分なんかが投票していいと思えない」みたいな人たちは口ではそう言いながらも意思決定から「遠ざけられてる」という恨みをどこかで抱えて生き続けてきたのだろうと思う。
そういう人たちが自分で決めていいことって極小で、自分のお金を使ってできる身の回りの買い物とかもしかしたらそれすら自由じゃない、その中で「クリック」「タップ」というのは最後に残された自分らしさ、自分であることだったのだと思う。だからしょうもない無料お試しとかおめでとうございます詐欺とかロマンス詐欺に引っかかり続けもする。
で、ネットでここにリーチを広げた候補者たちがやったのってこの無料お試し詐欺やおめでとうございます詐欺やロマンス詐欺みたいなことなんじゃないかと。
これね、当人の能力の問題なんじゃなくて、そっちに行かない多くの人はたまたま気にかけてくれる人がいたり自己決定権があったりして顕在化しないだけで、潜在的には五十歩百歩なんじゃないかと思ってる。
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙