いつか本物のオーロラ見てみたいし、うまい棒のコーンポタージュとたこ焼き味が食べたい
・恋愛と友情の違いが感覚的にわからない
・恋愛がなにかわからない
・友情がなにかわからない
・「すき」という感覚がある(LOVEって感じなときもある)
・「すき」はからなずしも恋愛関係や性愛(性行為)に結びつかない。結びつく場合もある。
・「すき」は、こっち側に自分の思いが向かっているという感覚もあれば、尊敬が混ざっているような時もあって、結構スペクトラムな気がしている
・ここら辺はセクシュアリティの水準とも異なる
・この「すき」の感覚は周囲には理解されづらい気がしていてほとんど口にはできない気がしている
・「すき」の一部は「褒める」という行為にもつながるのだが、「八方美人」やら「社交辞令だ」と言われてすごく息がしづらい。単に額面通り褒めたいだけの時もなかなかできなかったり。社会によっては自分の感じた好きという感覚を発言しやすい国あるいは言語もあるのかもしれないなと思うことも。
ここら辺の感覚から、自分にとってクワ(クォイ)ロマンティックがどういう感じか考えたり調べたりしてる。
ジュディス・バトラーのインタビュー(2018年実施)を掲載いただいています。
このインタビューは、当時のフェミニズムの状況を憂えた間部百合さんがバトラーに直接掛け合ってくださって実現したものです。間部さん、翻訳の西山さん、エトセトラの皆さん、ありがとうございました!
ちなみにバトラーの方も、フェミニズムの話をする機会は断れないと思った、と多忙なイベントの合間に、当日数時間に及んだインタビューを無償で引き受けてくれました。
様々な女性たち、女性ではないけれどもフェミニストやクィアの生に深く関わっている人々に、届きますように。
数時間のインタビューといえば、2018年の来日時、東大講演と同じ日にゼミ形式のディスカッションにもご参加いただき、傍目にもホテルにお帰りいただく方が良いのでは的に疲れていたバトラーが、それでもその後のレセプションで自分に会いにきた若いフェミたちクィアたちの話を聞きサインをし助言をしていて、パブリック・インテレクチュアルかつアカデミックなクィア・アイドルとしての責任感のような迫力を感じたことを、ちょっと思い出します。
「日本国民は多様だ」ということを証明するのはめちゃくちゃ簡単だけど(憲法と法律の定義だけでもそれがわかる)、「日本国民は人種・民族・言語・文化的に単一」ということを証明することのほうがめちゃくちゃ難しいだろう(というか科学的にもどう考えても無理なことだ。超偏ったサンプリングによって抽出された偽りの「単一」ならいくらでも疑似科学的に出てくるだろうが)。
「保守」と呼ばれる人々は単一であるということをよりどころあるいは自分たちの強さや自信につなげたいために頑ななのかもしれないけど、自分たちの生まれた大地の歴史や社会や人々の営みをシンプルに度外視しないでほしい。
差異は悪いことと教育を通じて教えないでほしい。差異はただの現実の状態のことで良いとか悪いとかいう水準のことではないから。それを悪いとか劣っているとかいうことは、それを支配や抑圧や搾取につかおうとする意味でとても政治的な行為だ。
めっちゃ長文になっちゃったけど、もうちょっと自分のテーマに戻ってきて、ちゃんと自分のテーマで発信する機会を増やしたい…!この最後の一文が言いたかっただけで、ぐだぐだ長いグチになってしまいました
「日本人」という言葉だって明治期になって広がったわけで、そもそも江戸時代には「藩」の意識が強かったし、各地を「くに」といっていたわけだし。たとえ一時的に鎖国になっていても、実際に制限された中でも他との国交は続いていたわけだし。インドから大陸や朝鮮半島を経由して伝わってきたヒンドゥー教や仏教のカルチャーが奈良というかつての首都を作ったわけだし、その時代からすでに通訳者や移民の人々は活躍していたわけだし。同じ沖縄県でも、沖縄と宮古と八重山ではそれぞれの言葉やカルチャーも全然違う。宮古の中でも池間の人々は自分たちを「池間民族」と言っていて、やっぱり差異がある。
文化だけではなく、言語も、文化・風習も、食べ物でさえも、決して「単一」とは言えない豊かな多様性もあるわけだから、そういったことをもっと深掘りして「日本人とはなにか」を考えて行ってほしい。
「日本人とはなにか?」「本当に単一なのか?」については、個人的には、マイノリティを鏡にするんじゃなくて、自分自身で調べたり深掘りして行ってほしい。
自分はクォーターだけど、自分に対していつも「米国人のおじいさんの背景や経験」について聞いてくる人は、自分自身のお祖父さん・お祖母さんの経験についてもまずは調べたり考えてほしい。自分のお祖父さん・お祖母さんが生きてきた社会状況はどんなだっただろうか、どんな言葉遣い(言語)だっただろうか、どんな文化や習慣があっただろうか、そしてそれよりも以前の人々は…?
日本だって大日本帝国の時代には混合民族だといっていてそれが主流だったわけだし、歴史を辿ればアイヌや琉球だけではなく、隼人や熊襲や蝦夷と呼ばれていた人々がいたというし。朝廷側に抵抗していた人々、大和民族の支配に抵抗し続けていた他の民族がいたわけだし。戸籍や制度や抑圧から逃れ続けた山に暮らす「サンカ」と呼ばれた人々。大和に抵抗することで妖怪扱いされた土蜘蛛と呼ばれる人々。
もしかしたら例えば、ジェンダーの研究者で、女性運動について研究してきた人を講師として呼んだ時に、「あなたの研究は、翻って『男性とは何か?』を知ることにとても役立つので、そういったメッセージやお考えをお話してください」となった経験がある方もいるかもしれない。
セクシュアル・マイノリティがテーマで活動や研究を続けている人に対して、「『異性愛とは何か』をメインにお話をしてください」となった経験がある方もいるかもしれない。たしかに、マジョリティという状況に置かれることが、社会的に優位な構造的背景によって、差別と抑圧の加害側になり得るということを理解することやそういった点を伝えることは大事だとも思う。
でも、自分自身に対して「『日本人』とはなにか?」ということを聞きたい人たちの背景には、「マイノリティを鏡にして、自分たちの姿を映したい」という状態を設定したい欲求があるように感じるから、おそらく違和感を感じるのかもしれない。
でもだんだんと、『日本人とはなにか』については、まさに自分自身が「日本人である」ということに何の疑いもないし「単一民族・単一言語・単一文化が2000年も続いてきた」という政治家の言葉にまったく何の違和感も感じない人こそが、しっかりと現実はどうなのか、政治家のこういった言葉がいかに虚構であるのかを調べて発信していくべきなのではないかなと思ってくるようになった。
なぜ「ハーフ」「ミックス」の研究者に、それをメインで話をさせてくれないのだろう。なぜ、いつもマジョリティ側の自己アイデンティティを問い直すことに自分の研究やマイノリティの人々の経験が使われてしまうのだろう。
そういう思いが強く巡るようになってきた。
やはり自分の成績や進退についての権限を持っている立場の人からそういわれると、(在学を長期化させる経済的余裕もないし、早く卒業して就職しなければという状況に置かれていたから)評価も重要であった自分には、そういった方向に分析をおこなっていくようになった。
しかし心のどこかでは、どちらかといえば「日本人とは何か」と追求していくことよりも、初心にあった「ハーフ・ミックスの歴史や経験について」知りたい調べたい伝えたいという思いが強かったから、葛藤や矛盾を抱えながらも、研究の中で日本人論・日本文化論なども調べて行った。
こういったことをやってきたからか、イベントでも、論文でも、寄稿でも、自分は「ハーフ」をメインに話したくても、自分に「『日本人とはなんでしょうか?』というメッセージを発信してほしい」という依頼や期待がすごくきてしまう部分がある。
そのため、その研究の領域の中に、「混血」や「ハーフ」の居場所をちゃんと確保して、議論を「わかりやすくする」ために安易な二分法で現実を遮蔽してくれないように、なんとか批判を繰り返していくしかないというような感じで研究を続けて行った。
だからこそ、もちろん研究のフォーカスは「ハーフ」「ミックス」と呼ばれる人々についてだった。
どんな歴史背景があって、どんな経験をしてきたのか、そういったことを明らかにしていくのが、自分がやりたい大きな研究のモチベーションだった。
そんな中、
あるときゼミの先生に、私の研究は、「『ハーフ』の経験を明らかにすることによって、それが『日本人とは何か』という点を明らかにすることにもつながるから、そうった側面についても議論を進めてほしい」と言われた。
こう言われた自分は、「たしかに『日本人』を問い直すような研究にはなるかな」と思い、そうったことを論じるあるいは発信する必要があるのかなと思い、研究の方向性や論の進め方もやや方向が変わって行ったように思える。
Gender Queer (he/they)