ただの長文のグチです。。。
研究を始めた大きなきっかけの一つに、
日本には「ハーフ」や「ミックス」「クォーター」などと呼ばれる人々はたしかに暮らしているし、メディアにも登場しているのに、
こういった人々をテーマにした研究が、他のマイノリティ(特に所属していた移民研究・国際社会学では他の移民ルーツのマイノリティの人々)の研究と比べてとても少ない(というかほとんどない)という点がとても気になったからだ。
(あえて二分法的な言い方になってしまうけれど)研究者である「日本人」が「移民」を「研究対象にする」という調査の設定のなかで、しらずしらずのうちに言葉の含意に、「多様な背景があるのは移民」のほうで、「日本人」はそうではないというような設定が紛れ込んでしまっていて、いわゆる「日本人」の側にも多様なバックグラウンドが当然現実としてあるんだよということが忘れ去られるというか気づかれていないというか意図的に隠されているという状態になっていることが多くて、そういった研究の論文や書籍を読みながらうける小さい傷がたまるし、そこに居場所がないと感じるような研究のセッティングが多かった。
そのため、その研究の領域の中に、「混血」や「ハーフ」の居場所をちゃんと確保して、議論を「わかりやすくする」ために安易な二分法で現実を遮蔽してくれないように、なんとか批判を繰り返していくしかないというような感じで研究を続けて行った。
だからこそ、もちろん研究のフォーカスは「ハーフ」「ミックス」と呼ばれる人々についてだった。
どんな歴史背景があって、どんな経験をしてきたのか、そういったことを明らかにしていくのが、自分がやりたい大きな研究のモチベーションだった。
そんな中、
あるときゼミの先生に、私の研究は、「『ハーフ』の経験を明らかにすることによって、それが『日本人とは何か』という点を明らかにすることにもつながるから、そうった側面についても議論を進めてほしい」と言われた。
こう言われた自分は、「たしかに『日本人』を問い直すような研究にはなるかな」と思い、そうったことを論じるあるいは発信する必要があるのかなと思い、研究の方向性や論の進め方もやや方向が変わって行ったように思える。
やはり自分の成績や進退についての権限を持っている立場の人からそういわれると、(在学を長期化させる経済的余裕もないし、早く卒業して就職しなければという状況に置かれていたから)評価も重要であった自分には、そういった方向に分析をおこなっていくようになった。
しかし心のどこかでは、どちらかといえば「日本人とは何か」と追求していくことよりも、初心にあった「ハーフ・ミックスの歴史や経験について」知りたい調べたい伝えたいという思いが強かったから、葛藤や矛盾を抱えながらも、研究の中で日本人論・日本文化論なども調べて行った。
こういったことをやってきたからか、イベントでも、論文でも、寄稿でも、自分は「ハーフ」をメインに話したくても、自分に「『日本人とはなんでしょうか?』というメッセージを発信してほしい」という依頼や期待がすごくきてしまう部分がある。
でもだんだんと、『日本人とはなにか』については、まさに自分自身が「日本人である」ということに何の疑いもないし「単一民族・単一言語・単一文化が2000年も続いてきた」という政治家の言葉にまったく何の違和感も感じない人こそが、しっかりと現実はどうなのか、政治家のこういった言葉がいかに虚構であるのかを調べて発信していくべきなのではないかなと思ってくるようになった。
なぜ「ハーフ」「ミックス」の研究者に、それをメインで話をさせてくれないのだろう。なぜ、いつもマジョリティ側の自己アイデンティティを問い直すことに自分の研究やマイノリティの人々の経験が使われてしまうのだろう。
そういう思いが強く巡るようになってきた。
「日本人とはなにか?」「本当に単一なのか?」については、個人的には、マイノリティを鏡にするんじゃなくて、自分自身で調べたり深掘りして行ってほしい。
自分はクォーターだけど、自分に対していつも「米国人のおじいさんの背景や経験」について聞いてくる人は、自分自身のお祖父さん・お祖母さんの経験についてもまずは調べたり考えてほしい。自分のお祖父さん・お祖母さんが生きてきた社会状況はどんなだっただろうか、どんな言葉遣い(言語)だっただろうか、どんな文化や習慣があっただろうか、そしてそれよりも以前の人々は…?
日本だって大日本帝国の時代には混合民族だといっていてそれが主流だったわけだし、歴史を辿ればアイヌや琉球だけではなく、隼人や熊襲や蝦夷と呼ばれていた人々がいたというし。朝廷側に抵抗していた人々、大和民族の支配に抵抗し続けていた他の民族がいたわけだし。戸籍や制度や抑圧から逃れ続けた山に暮らす「サンカ」と呼ばれた人々。大和に抵抗することで妖怪扱いされた土蜘蛛と呼ばれる人々。
「日本国民は多様だ」ということを証明するのはめちゃくちゃ簡単だけど(憲法と法律の定義だけでもそれがわかる)、「日本国民は人種・民族・言語・文化的に単一」ということを証明することのほうがめちゃくちゃ難しいだろう(というか科学的にもどう考えても無理なことだ。超偏ったサンプリングによって抽出された偽りの「単一」ならいくらでも疑似科学的に出てくるだろうが)。
「保守」と呼ばれる人々は単一であるということをよりどころあるいは自分たちの強さや自信につなげたいために頑ななのかもしれないけど、自分たちの生まれた大地の歴史や社会や人々の営みをシンプルに度外視しないでほしい。
差異は悪いことと教育を通じて教えないでほしい。差異はただの現実の状態のことで良いとか悪いとかいう水準のことではないから。それを悪いとか劣っているとかいうことは、それを支配や抑圧や搾取につかおうとする意味でとても政治的な行為だ。
めっちゃ長文になっちゃったけど、もうちょっと自分のテーマに戻ってきて、ちゃんと自分のテーマで発信する機会を増やしたい…!この最後の一文が言いたかっただけで、ぐだぐだ長いグチになってしまいました
「日本人」という言葉だって明治期になって広がったわけで、そもそも江戸時代には「藩」の意識が強かったし、各地を「くに」といっていたわけだし。たとえ一時的に鎖国になっていても、実際に制限された中でも他との国交は続いていたわけだし。インドから大陸や朝鮮半島を経由して伝わってきたヒンドゥー教や仏教のカルチャーが奈良というかつての首都を作ったわけだし、その時代からすでに通訳者や移民の人々は活躍していたわけだし。同じ沖縄県でも、沖縄と宮古と八重山ではそれぞれの言葉やカルチャーも全然違う。宮古の中でも池間の人々は自分たちを「池間民族」と言っていて、やっぱり差異がある。
文化だけではなく、言語も、文化・風習も、食べ物でさえも、決して「単一」とは言えない豊かな多様性もあるわけだから、そういったことをもっと深掘りして「日本人とはなにか」を考えて行ってほしい。