「シュレーゲルは別の断章において次のように記している。「批評とは本来、ある作品の精神と文字とを比較することにほかならない。…… 批評するとは、ある著者を、著者が自己自身を理解したのよりもよりよく理解することである」(168; Nr. 992)。すなわち、批評とは文字のうちに書かれた作品を前にして、それがいかなるものでありえたか、あるいはいかなるものでありうるか、を問う営みである。これが文字と精神の比較、ないし作品とその理想の比較と呼ばれる。」(小田部胤久『西洋美学史』163-164頁)。
「作者はある精神を実在化しようとして文字を記す。この意味において、「文字は固定化された精神である(ⅩⅧ, 297; Nr. 1229)」。批評家は、作者による精神から文字へという方向を逆転させて、残された文字を手がかりに「〔文字のうちに固定された〕精神を自由にし」(idid.)、「文字を流動化する」(344; Nr. 274)。(中略)批評家に要求されるのは、必ずしも文字のうちに十全に固定されてはいないであろう精神を文字のうちから読み取ることである。」(同書164頁)。
バイアスと4つのイドラは、私たちの抱く先入観という同じ事柄を話題にしているので通じるものを見つけるのは楽ですが、ポストモダンと現代科学の間に繋がりを見つけるのは骨が折れそうですね。パッと思いつくのは、ポストモダンが出てくる1970年代の前の世代で科学的な認識について論じたガストン・バシュラールとポストモダン思想の関係を調べてみるとか楽しそうだなと思いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スパイ#:~:text=スパイ(英: spy)は,現代仏語)」の語源。
原義を踏まえると、互いに互いを見張る者同士が家族を作っていて(「espion(見張る者)」)、家族という関係を意図せず発見していき、家族であることを望むようになっていく(「espy (見つける、探し出す)」)物語ってことなのかな。
某間諜家族アニメの構成があまりにも綺麗なので、内容関係なく見ているだけで快くなっちゃうね。
プラトン対話篇を読みたい人