昨夜のニューヨークの公立図書館。
「イスラエルへの武器支援をやめよ」
ニューヨークのこういう黙らないところは素晴らしい。
(ペケからの引用)
https://twitter.com/bayoumimoustafa/status/1782928521842630708?s=46&t=ohULUKF2vxPWOI6SEtklEQ
誰も怪我をしてないけど、とあることがあり、保険が6等級も下がった。
我が家の家訓上ドイツ車は生涯所有しない、でずっときたから、一度もドイツ車に乗った事がなかったんだけど、代車の都合上やむを得ず、Eクラスのベンツが家族が乗る車で一時的に来た。乗った子ども曰く、
「このくるま、ごつごつ揺れてばかりだから乗り心地良くないね。早くカブトムシ磁石で(後部座席横)つけたいから戻ってきて欲しいね」
と、、、
メルセデスベンツのEクラスが乗り心地良くないって、、、、そりゃそうか、、、
何が言いたかと言うと、殊更遺伝をクローズアップしてさも知ったように論じるのはおつむが足らないんじゃないか、って。単一遺伝子ですらドミナントだって、半分。レセッシブなら単純に1/4。物事は複雑。遺伝の影響は小さくはないが、殊更それだけ重大視することではない。複数遺伝子が絡むなら尚のこと。この妄想の行き着く先が万世一系か。
デリダは、あからさまに哲学者であると同時に作家でもあるサルトルをモデルとしており、哲学としては比較しやすい。ただ、デリダの本領は、自ら「他者」と呼ぶフランス語との「言葉遊び」にあり、無理に形式化しても、それはサルトルの範囲内に収まる。
さて、日本の文学部哲学科ないし仏文科の難点は、フーコーの『狂気の歴史』、『監獄の誕生』、『性の歴史』及びコレージュ・ド・フランス講義を読むための、精神医学と刑事権力、主権と統治性、オルド自由主義などの経済学、より根本的には近世・近現代の欧州史などの知識を全く欠いていること。
であるから、「フーコーと眼差し」などといった全く「ズレた」問題設定になる。ちなみに「眼差し」を哲学的主題にするなら、間違いなく「サルトルと眼差し」でなければならない。
これは部分的には日仏の哲学教育の違いにも由来する。この当時の仏では基本カント哲学をベースにして、アリストテレス論理学・近世科学と哲学の関係をリセで叩きこまれる。
また仏では哲学者は同時に左派知識人でもある。この点が日本の文学部哲学科及び仏文科に全く欠けているハビトゥス。
であるから、フーコー、ドゥルーズ、デリダの日本への導入は、英米と同じく、基本的には失敗した、と総括できるだろう。
若い頃には敢えていつも敬遠していたモーツァルトの短調のピアノコンチェルト、今は短調の作品ばかりを圧倒的に聴くので、そういう意味では変わったのかな。
月月火水木金金
A qualified Psychiatrist, working in Tokyo.
love classical music, trout fishing and nature.