インターネット上のフェミニストは自ら積極的にフェミニストになろうとしたわけじゃなく、(ネット上では特に過激な)ミソジニーの構造上、フェミニストにならざるを得なかったのかもしれない。その消極的とも言えるネットフェミニズムは、同時に自らの女性性を奪われる不安を喚起させる(実際の性暴力被害のフラッシュバックの場合もあろう)。その迫害的とも言える不安の対象は、消極的だからこそ、マイノリティであるトランス女性に向かうのかもしれない。一方、シス男性のトランスヘイターはただミソジニーを発動しているだけであり、ヘイト行為をすることで自らのサディズムを示しているだけであろう。いずれにせよ、そこには個人の発達のアセスメントも社会の構造のアセスメントもなく、アンビバレントな葛藤を抱えられない行動化でしかないように思える。言い換えれば、二元論的構造の呪縛である。
今のトランス差別の状況を見ると、やはりフロイトの「ペニス羨望」の概念は間違ってないのかもしれないと考え直しています。ただし、フロイトはフェミニストからの批判を「ん?あーあれ?あれは苦しまぎれ」とかわし、時には逆ギレもしつつ、結局マチズモ(≒ペニス)に忖度してしまったわけですが。それでもフロイトは身体性を引き受けることの難しさは感じていたように思います。フロイト自身、身体性を引き受けられなかった医師であり、だから精神分析技法を開発したと言えますから。つまりフロイトの精神分析理論は精神分析技法のためのこじつけであるが、しかし歴史的に見ればそのこじつけは個々人が身体性を引き受けるためには必要なこじつけであったと。そのこじつけに多くの女性の人権を踏みつけてきたとしても。
そういえば今朝、私のホームで、高齢の親のネトウヨ化に関する例の記事について、結局のところ一人でいることに耐えきれずに簡単につるめる仲間を作ろうとしてしまう、コミュニケーションのための安易な媒体を希求してしまうことが問題なのだろう、という話が出ていた。
そのすぐ近くに全く別の文脈で、自分の生きているこの日本の文化においてまったく承認されないというか、コンスタントに存在を黙殺されなんなら積極的に排除され他者化され続けて、問題を共有し支え合うことのできる人を希求しそのために力を尽くして疲弊し絶望していることについての投稿があった。
どちらもそれぞれの文脈において正しいのだに思う。とはいえ、多数派男性が孤独の安易な回避に走ることを戒める前者の観点は一般化されるべきものではなく、その文脈に依存した議論であること、「孤独の回避」はそもそも構造的に圧倒的に孤立させられてきた人々にとっては生存に関わる問題であることを、あらためて考えていた。
今のところfedibirdで何の不満もないのですが、mastodonってサーバーの引越しはできるのでしょうか?
he/him Nothing about us without us harm reduction You'll never walk alone