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大人は子どもの変化への対応力や多様性への適応力を恐れている節があり、その恐怖が子どもや若者をスティグマ化させているように思える。

インターネット上のフェミニストは自ら積極的にフェミニストになろうとしたわけじゃなく、(ネット上では特に過激な)ミソジニーの構造上、フェミニストにならざるを得なかったのかもしれない。その消極的とも言えるネットフェミニズムは、同時に自らの女性性を奪われる不安を喚起させる(実際の性暴力被害のフラッシュバックの場合もあろう)。その迫害的とも言える不安の対象は、消極的だからこそ、マイノリティであるトランス女性に向かうのかもしれない。一方、シス男性のトランスヘイターはただミソジニーを発動しているだけであり、ヘイト行為をすることで自らのサディズムを示しているだけであろう。いずれにせよ、そこには個人の発達のアセスメントも社会の構造のアセスメントもなく、アンビバレントな葛藤を抱えられない行動化でしかないように思える。言い換えれば、二元論的構造の呪縛である。

今のトランス差別の状況を見ると、やはりフロイトの「ペニス羨望」の概念は間違ってないのかもしれないと考え直しています。ただし、フロイトはフェミニストからの批判を「ん?あーあれ?あれは苦しまぎれ」とかわし、時には逆ギレもしつつ、結局マチズモ(≒ペニス)に忖度してしまったわけですが。それでもフロイトは身体性を引き受けることの難しさは感じていたように思います。フロイト自身、身体性を引き受けられなかった医師であり、だから精神分析技法を開発したと言えますから。つまりフロイトの精神分析理論は精神分析技法のためのこじつけであるが、しかし歴史的に見ればそのこじつけは個々人が身体性を引き受けるためには必要なこじつけであったと。そのこじつけに多くの女性の人権を踏みつけてきたとしても。

ウクライナも自滅しそう。なんなんだよ、もう!

もう何もしたくないし何も感じたくない。

ハームリダクションを理解していれば、同性婚や法的性別移行が性暴力の入口になるはずもなく、むしろ性暴力からの出口になることを理解できるはずです。

Twitter民はトイレと風呂が大好き。ずっとそこで暮らせばいい。

気を抜くと、殺意でいっぱいになる。

boost>見ず知らずの人間捕まえて「ビョーキ」などと言ってのける人が「診断は私の仕事の範囲ではない」なんてよく言えますね。

Kiyopp さんがブースト

私は心理士なので、そもそも診断名とは関係ない仕事だから、当然、言葉を使うこともないし、何なら相手が診断名で何かを決めつけようとしていても、同じ話について違う視点から見て、日常語で話す訳だけど、ただ本人が何かものすごく気にしていて、苦にしている時は、そして私が何かを言うことがその見当違いな苦痛を取るのに多少は役立ちそうな場合は、時として診断名の話もすることはなくはない。その場合、「診断は私の仕事の範囲ではないから、詳しくは医師に確認して欲しいけれど」と前置きして。

でもここにも見ず知らずの人を「ビョーキ」と貶した奴がのさばっているな。

Kiyopp さんがブースト

そういえば今朝、私のホームで、高齢の親のネトウヨ化に関する例の記事について、結局のところ一人でいることに耐えきれずに簡単につるめる仲間を作ろうとしてしまう、コミュニケーションのための安易な媒体を希求してしまうことが問題なのだろう、という話が出ていた。

そのすぐ近くに全く別の文脈で、自分の生きているこの日本の文化においてまったく承認されないというか、コンスタントに存在を黙殺されなんなら積極的に排除され他者化され続けて、問題を共有し支え合うことのできる人を希求しそのために力を尽くして疲弊し絶望していることについての投稿があった。

どちらもそれぞれの文脈において正しいのだに思う。とはいえ、多数派男性が孤独の安易な回避に走ることを戒める前者の観点は一般化されるべきものではなく、その文脈に依存した議論であること、「孤独の回避」はそもそも構造的に圧倒的に孤立させられてきた人々にとっては生存に関わる問題であることを、あらためて考えていた。

ドラッグとセックスワークとカウンセリングってなんでそんなに嫌われるんでしょうか?それら自体は手段なので嫌われる筋合いはないと思うのですが、たぶんそれらについてSNSで言及する人がいかがわしいだけなのでしょうね。言及する人たちって高飛車に感じるし、基本現実的にふれあえない、ふれあいたくないとされる人たちですもんね。ぼくも。

今のところfedibirdで何の不満もないのですが、mastodonってサーバーの引越しはできるのでしょうか?

Twitterは現実の痛みにあふれていて、それを見て怒りに変えることで悲しみを押し殺してきた。でもmastodonでは悲しみは悲しみのまま表現してみたいと思う。

臨床の仕事をしている時だけは、人を信じてみてもいいかなと思えます。しかしその仕事を失い、お金もないので資格も失いました。もう誰も信じられません。自閉の殻をつくるしかありません。ぼくはもう存在しないのです。なぜ生きているのでしょうか?なぜ生まれてきてしまったのでしょうか?毎日そんなことばかり考えてただ生きています。でももう疲れました。考えることをやめたいです。

キワモノ扱いのTwitter上の自分はもういやだ。
mastodonではありのままの素直な自分でいたい。

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Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。