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BT>学校臨床の経験上、学校でのトラブルに保護者が介入してくるとろくなことがなく、子どもの傷つきが深まるだけだと思っています。それだけ学校に子どものこころを理解できる、少なくとも理解しようという姿勢のある大人がいないということなのですが。

Kiyopp さんがブースト

いじめってのは根が深いもんで、小学校3年生のとき、集団でいることに興味のない人間だった私は、明らかに担任から嫌われて?目をつけられて?いて、教室で級友の作文が破られたとき、明言はしないけど「私のせい」という雰囲気を作られてしまった。今思えば、特定の友達のいない私はターゲットにしやすかったんだろうね……結局は最終的に親が介入して解決したけど、20歳超えて、全然違う場所でその担任を見たとき、燃え上がるような憎しみを感じたね。いじめてからかってきた同級生よりも、救ってくれなかった大人に対して、こんなにも深い憎しみを感じることがあるのか。と、今でも思い出すことがある。

「ヤラセ」とは「演出」で、現代社会においては自己演出しなければ生きていけないということなのでしょう。
精神分析的にはそれを「偽りの自己」(ウィニコット)と言います。社会適応のためには必要な防衛ですが、「偽りの自己」はいずれ破綻します。

BT >まあ、「活動家」には直接会わないと理解できないと思います。会ったら会ったで「ヤラセ感」感じるんですけど。
臨床でも初めてお会いする方に対しては「ヤラセ感」を常に感じます。でも、その「ヤラセ感」にその人の本質的な困りごとを理解できる手立てがあるのだと思っています。逆に言えば、直接会わなければ「ヤラセ感」はほったらかしになるだけで、フェイクニュースばかりがネットの海に垂れ流されることになり、「活動家」もただの偽善者、もしくは犬笛吹きのピエロにしかならないのでしょう。

Kiyopp さんがブースト

個人はとりあげても「活動家」はとりあげない問題
全くその通りなんだけど、

「活動家取り上げてもいいんだよ」とか
もっというと「個人が自然にそういう動きをした結果、活動になっていった、というストーリーがなければ、活動家の呼びかけで起こった社会の動きにはヤラセ感がある」とか
そういうイメージ持つのやめようよ、と「言う」にはどうしたらいいんだろう、と思う。

言うというか、聞いてもらうには、活動家の声では、だめなんだよな。

あとそもそも、ヤラセ感、なぜ持つのかを考えてみていい気がする。
私らだって、ネトウヨが変な動きしてる!とか、犬笛行為に乗ってる!とかは、ヤラセ感、感じるじゃん?
自分の賛同する運動はヤラセ感あってもいいんだ、ってのは、何か違う。
意義のあることであればヤラセ感を感じない、んだとすると、意義を理解してもらってない人にはヤラセに見える。それでいいのか。

どうすりゃいいのか。

BT>メディアの「当事者」への寄生ですね。そうすることで報道としての責任を回避しているのでしょう。
結局のところ、自分たちマジョリティとしては理解できない人たちとしてマイノリティを見ているのが透けて見えます。報道の中立性というのが強者から弱者への視点でしかなく、そこから動かない、動くつもりもないということです。
日本の「思いやり」道徳教育の成果です。人権教育を蔑ろにした成果です。

Kiyopp さんがブースト

松岡さんのご発言には同意しかないのですが、それとは別に、こういう時必ず「当事者の」って出さずにはいられないマスコミの扱い方、なんとなく私は好きじゃないです。

もちろんさまざまな問題についてその問題に直接関わる人々の見解に耳を傾ける必要があるというところからの「当事者」なのは分かるのですが、でも「当事者」なら誰でも良いわけじゃなくて、松岡さんはっきりアクティビストでありライターですよね。

にもかかわらず「活動家」的なイメージを回避して「当事者」を押し出したいジャーナリズムの雰囲気があるように感じていて、それがなんとなく気持ちが悪いです。

「まさに、そこの中心となるのが「差別の禁止」という規定がない。これは端的に言うと、家の土台がないまま家を建てようとしているような状況で、深刻な被害に対して、「差別を禁止」という土台がないとまず守られないというのもそうですし、公人の発言など差別的な認識を持っている人たちが広げる理解って一体何だろう?というような疑問もあるので、誤った理解を広げられてしまう懸念もあるかなと思っています。」

newsdig.tbs.co.jp/articles/-/3

戦うことでしかアイデンティティが保てないのなら、そんなアイデンティティなんて捨てちまえばいい。そもそもそんなのはアイデンティティとは言えない。内にある抑うつに向き合わなければ、結局インディヴィジュアルにはなれない。何者ににもなれない。

国家からの虐待の最中にある大人に子どもの虐待が見抜けるわけがないというドツボ。
子どもの話を聞ける大人もどんどんいなくなるという蠱毒の壺。

虐待、学校に相談せず75% 「聞く側意識変えて」、民間調査
nordot.app/998101631494750208

観客だった者が踊り始めたので誰も観客がいなくなった狂喜乱舞の快感原則の世界。

Kiyopp さんがブースト

ほんとそれな。

"成田悠輔が国内の声でなく外圧でテレビから追い出されるのに虚しさを感じる。

三浦瑠麗を良識ではなくスキャンダルでしか降板出来ないし、安倍晋三を選挙ではなく暗殺でしか排除できないし、太平洋戦争を原爆落とされるまでやめられなかったこの国。
とことん自浄作用がなく、総括ができないんだな。"

twitter.com/naka_naka_3/status

はっきり言ってTwitterで行われていることは
「black lives matter」
に対する
「all lives matter」
を、延々と繰り返しているに過ぎない。
全体が見えていない。見ようとしていない。自己愛的な行き詰まりで自滅しているのに、それに気づいていない。見えているのは、狭い世界で誰をターゲットにするか、誰を貶めるかでしかない。
おもんない。

『社会で孤立したり、コミュニティからはしごを外された(ように感じた)りした人間が、何かにすがっていく過程には普遍性があるように思います。しかも現代のグローバリズムは社会の同質性を破壊し、格差を拡大していく。そこで新たな絆(きずな)を求める人に手を差し伸べるのが、カルトや陰謀論です』
wpb.shueisha.co.jp/news/politi

Twitterはほんと承認欲求のバケモンたちが集まったカルトだな。

のぶちよの件で山口県人叩いたってびくともせんでね。なんせ田布施システムじゃけぇのう。洗脳されきっちょるけぇ。逆にカルトの結束が強まるだけじゃろうて。

「発達障害」にしても「愛着障害」にしても「依存症」にしても「PTSD」にしても「パーソナリティ障害」にしても、診断名は単なる記号に過ぎません。記号は共通言語にはなっても状態像全体を表すわけではありません。ある枠組みの中に入る安心感はありますが、単なる記号に自分を押し込めてしまってももったいないです。
現代では精神疾患の薬物療法が発展し、ある程度診断名が共通言語として有用にはなりましたが、それでも特に精神疾患においては薬物療法は対症療法に過ぎず、しかしだからこそ自己診断では危険を伴い、精神科医の診察と処方が必要なのです。
そして精神医療へのアクセシビリティを高めるために公認心理師や臨床心理士がいるはずなのですが、日本ではいまだこれらの資格が機能していません。これではアクセシビリティが高まるはずもありません。つまり診断名にこだわる前に精神医療やカウンセリングへのアクセシビリティを高めることのほうが先なのだと思っています。

幼稚園で子どもたちが基地をつくってその中に入って遊んでて、ある男の子が「女は禁止〜」なんて言うから間髪入れず「それはいじわるだよー」と言っといた。「おれたちがつくったんだ」「入りたいなら女でつくればいい」などと理由は言ってたけど「なかよくなるために遊ぶんだからみんなで入れるようにしたほうがいいよー」と伝える。
こうして幼児期から無意識にジェンダーバイアスが刷り込まれていく。もちろん遊びだからある程度許容する必要はあるが、許容とは大人が何もツッコミを入れないということではない。
ちなみにこのクラス、担任が病休中。だから基地をつくりたい気持ちもわかる。

毎日死ぬことしか考えてないけど、幼稚園カウンセラーバイトの日だけは生まれてきてよかったと思える。シフト増やしてくれ。そっちんが若い教員から潰れずにすむから結果的にコスパがいいし持続可能性もあると思うんだけどなぁ。つーか、今いる子どものことを第一に考えられんで守れんような社会に持続可能性はないのよ。

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