あ、分かりやすい(多分)説明をすれば、精神分析って、フロイトの言う、「モーニングワーク(喪の作業)」をものすごく大切にするんですよ。
クラインは「抑うつ」を大切にします。
喪の作業というと、一般には「人と永遠のお別れ」を連想しますが、例えば「東大に入りたかったのに入れなかった」みたいなやつもひとつの自分の夢とのお別れなので喪が必要になる。好きになった女性にフラれたとかも。病気などで身体の一部を切除せざるを得なくなったとか。老いもそうですね。能力を喪い、残された時間を喪い、かつて持っていた地位を喪い…。
そういう場合に人は落ち込んで悲しんで涙して、時に怒り、誰かのせいだと言ってみたり。でも最終的にどこかで受け入れざるを得ない外的な現実とそれを耐えがたい苦しみと感じる心的現実の間で折り合いをつける。
そのプロセスで、人は真剣にもがき苦しみ、真剣に怒り、縋り、求め、悲しみ、涙したり、もんどりうって胸を掻きむしったりする。
それが出来ない心の状態がある。“苦痛“を自分の中で長く体験できない。感じた瞬間に吐き出そうとする(誰かに嫌がらせをして解放されようとする)。瞬間的に心の奥に密封してないことにしてしまう。そういう人はヘラヘラしているか、貼り付いた笑顔しか持てないか、表情を失うか…苦痛を消してしまう。
ネトウヨとかで言えば「素晴らしい自分や国のセルフイメージの毀損」に耐えられない。または「世界(この世というくらいの意味での)」が実は自分が思っていたような素晴らしく感動させてくれるものではなくて、実はかなりのガラクタの山だということに耐えられないとか。神様がいないことに耐えられないとか。
耐えられない自分がいるのに、なのに(だから)自分の苦しみと世界を分離できないから、胸を掻きむしるほど苦しい、力のない、世界に負けてしまった「ルーザーとしての自分」を体験できない。認知できない。
それが出来ることを精神分析では「エディプス期を通過する」というのですが。
そしてそれはとても残念で悲しいことなので涙を流す。その涙を流せる力が人を一段強くする。その強さはネトウヨなどのイキリとは逆の強さです。
私自身、ある時期まで(今もまだそういうところは多分にあるとは思うけど)本当に「ごめんなさい」と「ありがとう」が心から言えなかった。言えないことに自分で気がついていなかった(言えるという状態がどういう状態か知らないのでわからない。現実には言葉としては発していたから。“心から“ではなかっただけで)。
「ごめんなさい」と「ありがとう」は、自分の瑕疵と無力を認める言葉。それは相手を救うのではなく自らを赦し楽にする言葉。