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「いだてん」、ひたすら悪口を言えてしまうのでよろしくないな……。ちゃんと評価せず、便利に使ってしまっているのに近いので。

コロンビア大に市警のみならずSWATまで投入されたと聞くと、そこまでやるかと呆然としてくるな……。

先日「ベルセルク」が無料公開されてた際、Twitterで「ホモソーシャルの良くない面がちゃんと描かれている」みたいな感想を見た。しかしあの漫画はたぶんその「良くないところ」が話の大きな軸のひとつになっているし、作者も別にホモソーシャルを批判しようとしてああいう話にしているわけではないのでは?受け手も、「良くないからホモソーシャルは魅力的だ」くらいに思ってたりしないか?

「物事には様々な側面があるよね」と出来映え素晴らしいエンターテイメントが描いたとき、受け手は「この作者は良くない面も『ちゃんと』描いており、否定的に取り扱っている」てな物言いはよく見る。でも本当にそうか?作り手はその「良くない」面を真に否定的なものと思うからそう描いている?「良くないからこそいい」とか、あるいは「素晴らしい」とか実は思ってるんじゃないか?

歴史修正主義的な言動をする極右の議員が「ゲゲゲの謎」に好意的な感想を持つなんて不思議だ云々、そんなに不思議かァ〜〜〜?ってなる。魅力的で出来栄え素晴らしいエンターテイメントとはそういうもんだろう。
なんだったら「いだてん」も普段スポーツの政治利用やナショナリズムに否定的な態度を取っている向きが「ちゃんと批判していて素晴らしい」と称賛していたがという話を持ち出したくなる。

今回のコラボカフェは作中に登場した食べ物をメニューにしてるのがいいなあというのと、保険屋コンビも勘定に入ってるのが嬉しいっすね。
一時期スティーブンとウルフウッドの顔はほとんど同じになっていたが、最近は意識して描いてるのかして、かなり違う顔立ちに。にしても、二頭身にデフォルメしたキャラクターを描くのは初めてという通り、頭部は普通で身体だけデフォルメされてる感が。
chugai-grace-cafe.jp/collabora

思ったが。岡田索雲のマンガはネタ元をそのままストレートに書きすぎだと感じるのが、わたしにとっては褒めづらいポイントなんかもしれん(「追燈」は漫画として描き起こさず、文を引用しているからこそのインパクトではある)。
アレンジせず、つまりエンターテイメントのかたちに落としこまないからこそ扱っているトピックが素直に伝わるのだともいえよう。「ちゃんと」エンターテイメントにした結果、面白さばかりに耳目が集まってトピックの社会的意義が忘れ去られる、そんなことは多々あるわけで。

今週の「虎に翼」は、人質司法や検察のストーリーをどう崩すかといった、「法とフェミニズム」中心だったこれまでとは異なる観点から、しかしやはり現代に通じるテーマを取り扱っている。
本作が悪いわけではないのだが、現実には汚職をうやむやにしようとしている動きが強い中で見ると、個人的にはちと食い合わせがよろしくない。

「報道特集」で、今の北朝鮮では韓国の音楽を聞いたり流布させた容疑で少年が懲役12年の判決を受けたり、韓国の映像作品を見た22歳の若者が公開で処刑された、という証言が報じられており、「宝くじの不時着」はちょっとのんきすぎたんじゃないかという気持ちになった。
作品の意図としては「音楽の魅力は境界線を越える」だったんじゃないかと思うが、「なんのかんの言ってもみんなこっちの音楽好きでしょ?」みたいに見えもし。

「虎に翼」を見ているときのぼく「百年前は最悪だな〜〜〜(今がいいとは言っていない)」
今日の放映を見たぼく「政治家が逮捕されるぶん百年前のほうがましなのでは」

きょうの「虎に翼」。男性たちがみずからのトキシック・マスキュリニティを自覚し、謝罪する展開はファンタジーだなあこれが朝ドラの「限界」か……という感想を、つい持ってしまった。枠に求められるイメージもあろうし、簡単には解消しない問題の描写を15分✕5回のフォーマットにはめこむ弊害でもあろう。
さておき、異性愛を押し出す展開は「マジでー?」と首をひねる。異性の登場人物が相手に関心を持つとそれは即ち「愛」であり、「愛」が存在したら(受け手は)なんとなく解決したような気分になる、そういうのは勘弁願いたい。

一方で、わたしは昔の漫才師のよくやる相手の妻を腐すやつは特に気にならずワハハと笑ってたんだよな。この違いはなんなんだろう。

朝ドラ見ていて、綾小路きみまろが往時大ウケしていたことがどうしても謎だった記憶が蘇った。というかいまでも謎。

"民族の尊厳を踏み付けながら謝罪もなく「学問の自由」をうたうなど虫が良すぎる。"
かなり踏み込んだ結びだなという印象。
tokyo-np.co.jp/article/322683

昔読んだ紫式部の伝記漫画で、序盤に若き日の道長を遠くから見てときめく場面があった。なぜこんな場面が……と謎に思っていたら、後に紫式部日記の挿話が登場し、子供心に「嫌な前振りだなあ」となった思ひ出。
shueisha.co.jp/books/items/con

今年の大河ドラマは、見る前は「女性を主人公にすえたからといって、またぞろ意味や必然性もなく異性愛を主題にしてるのか?」くらいの態度で見始めた。すると意外にも、恋愛がドラマを力強く牽引しているので驚いた。
宮廷社会、つまり結婚と政治が深く絡んでいる場を舞台にしていることと、個人の経験がいかに文学に昇華されゆくかを展開の主軸としているからだろう。

オーフェンの新しいコミカライズの影響で、ここのところTwitterでしゃべり散らかしている。Twitterをやめる日が遠のくばかりだ。

大河ドラマの話でもする。最近の展開が中関白家をことさら愚かしく描いているように見えて引っかかりを覚える。道長が兄たちの姿を踏まえ政治家として成長していく展開とするにせよ、「専横を極め民が視野にない道隆たち」「兄に直言し民を思う道長」は対比として単純すぎないか。

「虎に翼」、今のところ気になる点がいくつかある。
・心ある法学者、心ある弁護士、心ある裁判官が事態の主導権を握っていないか?(おそらく桂場が「考えを変える人間」として配置されているのだと思う)
・穂高先生の心ある男性であるがゆえの「限界」が描かれてほしい。
・法学の議論をしている場面が「あの二人、仲いいわね♡」みたいに扱われたり、今日の「彼女も君を気にしていたようだよ」とか、そういった異性愛規範への批判的視点は今後出てくるのか?
・山田の異性装に「水の江瀧子みたい」と脳天気な感想を述べる虎子、ここもつっこまれるとは思うんだがどうなるか。
・山田の怒りが、どうか「矛を収めることが大事」みたいな無碍な扱われ方をされませんように。

何かを読んで感想をぶつぶつ言うのは習い性かつ趣味だからやっているのだが、まともなふりをするのも疲れており、アホらしいことやってんなーという感情が強い。

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