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曲自体へのこだわりはそれはたくさんあるけど、リリースした後の曲の扱われ方に関してはこだわりが本当にないんだよね。

リリースって放流みたいな感覚で、曲は自分のものじゃなくてみんなのものになると考えてるのもあるし、
原曲フルで聞いたとて曲や詞が意図通りに伝わることなんて絶対にありえないんだから、どんな形で流行っても何も気にならないしな。

人気、つまり人と人との間に流れる気なんて濁った川の水みたいなもんで、多少濁った形で流行るのが健全だと思うし、ハハハおもろいな~みたいな、嬉しさしかないな。
ただ、変な扱われ方をしないでほしい!って考えるリスナーも多くいるし、それもそれで尊重したいからあんまり強くは煽らないけど。

一本wavでイベントに出る場合、ステージ上に本人が立つ必要があるかどうかは、核心に迫る問いだと思う。
不在の場合、何があればその要素を補完できるかとか、仮に成立するとすればどんなイベントの形が考えられるかとか、成立しないなら、本人の存在のパワーとは一体何かとか。
概念の解体、新しい発想、様々な可能性がその問いを通して生まれてくるが、流れとして「不在でも全然あり」という実例を最近3例ほど聞いており、興味深い。

海外公演を立て続けに行うとどんな結果が待っているのだろうな。少なくとも、未知の結果とカオスな刺激を求めてはいる。

twitter.com/livedoornews/statu
大手レーベルがネットで音楽をばら撒かれるのを止めるムーブってのは10年前から何度もあって、それは企業判断として仕方ないんよ。
ただ基本的に多くの有名なボカロPは、その時から実はそれなりのレーベルに音源を預けてることが多くて、それ故にSpotifyに長らく置かれないとか、bandcamp言語道断とか、その手の停止措置に何度も晒されてきたわけ。

だからこそ俺はすごく早い段階、おそらくボカロP最速レベルでSpotifyやbandcamp等々に置き、そして勝手なばらまきや二次創作を煽り、PatreonやFANBOXなど、個人だからできる勝手なムーブをやれてきて、それが今日の海外バズに繋がっているのは柴那典さんの分析でも明らかなのだ。

仕方がないとはいえ「TikTokで自由気ままに使える日本の有名曲」というカテゴリーで、きくおの曲はさらに繰り上がってくるわけで・・・。

聖剣伝説3サントラのブックレット内容、ググってもマジで出てこないな。ふふ、じゃあ俺だけの宝物だな。

俺にとっての創作論の聖典は、聖剣伝説3サントラの菊田裕樹さんのセルフライナーだというのを永遠に言い続けてるんだけど、
創作とは人に始まり人に帰すもので、本質的にコミュニケーションなので、人への理解なくしてすばらしい作品はありえない みたいな文言は、圧倒的コミュ障な上に一切の人断ちをして制作ばっかやってた当時の自分には突き刺さったよ。どうしようって思った。

確かにそれはそうだけど、境遇的に切羽詰まっている場合とりあえず制作を最優先にして、後から補完していこう と今にしては思うw

音楽が美しいのは、基本的に雑然としたナマモノである音という現象が、ルールと規則性に則って整えられるからで、美とは整合性のことなんだけど、
では「より美しいもの」とは何かというと、それは高度に整合性のとれたものになるんだよね。

これはロックバランシングを見てみると一発で理解できる。
四角いブロックがきちんと積まれているのも美しくはあるが、より高度な整合性が取れていると、より強い美が生まれるわけ。

だから、より奇抜な音、より扱いにくい音を、どう音楽的にまとめるかというのに俺はすごく興味があって、それが自作の「不思議な音」感の一端を担っているんだと思ってる。

ただの雑音、強烈な不協和音、低音楽器LR極振り、定位設計が崩壊する立体音響、品のない言葉。それらすべてに整合性を取ろうとするっていうのがねえ 好きなんだよねえ。燃えるわけ。

twitter.com/Hiroki_Kikuta/stat
音楽に限らず、美とは整合性のことなんだよね。
たとえば顔が左右対称であるとか、数学的な美しさもそうだし、デザインもそうだよね。
音が、あるルールに沿って整合性が取れた配置になっている、というのを美と解釈されるわけ。
ツイートの例だと、ルールに沿った音階で演奏されているかどうか、ルールを感じさせられるかが肝ってわけだね。

んで逆に言えば、整合性さえ取れているなら美として認識されてしまうというハッキング的ルールがあって、それは俺はよくやっている。

たとえばLにキックがあっても、Rにベースが来れば整合性が取れるので美たりうるとか。
微分音にしても、メロディや流れに整合性が取れていれば美になる。
テンポアップに関しても、アップするに足る理由があればよい。どんなに下品な歌詞でも、明確な理由を付加してやれば美になるのだ。

息抜きに無限にチェスやってるんだけど、持ち時間3分のブリッツルールでレート970まで来てる。
1000を超えれば将棋ウォーズ換算で初段、上位20%に食い込む。ああなんて楽しいんだろう。

ライブの準備で頭おかしくなってるけど、締切に追われることが今は気持ちいいよ。締切がないことの不安よりはずっといい。

依頼仕事がうまくできないという性質を、自主制作に向かう強制力となっているので長所と捉えるかどうか

最近気づいた、実は当たり前じゃなかったこと。
俺は昔、コード進行が理解できない、不協和音が理解できない、歌モノが作れないなどが長い間大きな課題だったんだけど、それは俺にとって、音楽は5秒ごとに飛ばしながら聞くものだったからなのね。

音楽とはその瞬間に鳴っている音を楽しむもので、よほど気に入れば1分半の音楽も聞けたぐらい。それもあって当時のインターネットのアングラ音楽や、視聴を強制されるゲーム音楽が好きだった。
俺が歌モノを聴かなかったのもそのせい。歌が文章を形成する前に飛ばしているからだ。

曲の展開の作り方も、そもそも音楽を通しで聞いたことがないから、ABサビ!みたいな理屈だけ検索して覚えて、それで構成していた。簡単な構成なら十分ごまかしが効いた。

音楽を3分以上黙って聞けるようになったのは実はここ最近のことなんだけど、それは危機感を感じたがゆえの工夫の成果であって、根本的なところは今も変わってない。

あと「俗」に「スピ」を入れると共感へと化学変化するというのがあって、たとえば「うんこが漏れます!やばい!!」だとただの汚い話なんだけど、「いま僕は誰よりも神を信仰しているだろう」と受けると中和が起こる。
「結婚式をあげよう」だとただのハッピーソングだけど「天国で」と受けると良くなるわけ。

これはかなり応用範囲が広くて、今のは陰と陽のわかりやすい組み合わせだけど、「ごめんね ごめんね」だと焦げ茶と黒ぐらいのバランス、「幽体離脱」だと空色とパステルピンクぐらいの俗・スピのバランスになる。

ただしイケメンか美女が歌う場合は俗だけで成立する。

「私はこんなにつらくて苦しい思いがあったので叫びます!ワアーつらいつらい!」だと人は壁を作るんよ。
「こんな物語があるんだ。あるところに少女がいた。それはそれはつらい境遇だった。それもそのはず・・・」という形で語られると話が入ってくるでしょ。

暗い歌詞を作るのに慣れてない人がなぜ前者をやりがちかというと、実はイケメンか美女が歌う場合に限り前者は美として成立可能で、それにまず憧れるのかなあって。

あとシンプルに気持ちいいもんな。自己セラピーとしての創作なら全然アリでどんどんやっていいし、俺もそれは趣味でやってて発表してない。

アウェー戦の何が気楽かって、嫌われても損しないところ。

SXSWというテキサスのでけえフェスに出るんだけど、俺がどこに配置されたかって、Alice longyu gaoが出演するハイパーポップ勢の並びのステージなんだよね。
これは面白い。新たな発見だ。
きくおボカロ曲、特にライブの様子を、ハイパーポップという文脈で再解釈するのは確かに可能だ。100gecsのDJを参考にしてるし、確かに親和性がある。

日本で発生したハイパーポップのいち文脈としてのきくおボカロ曲・きくおライブ。しっくり来る。

お金とは価値のことで、価値とは希少性のことで、希少性とは複数スキルの組み合わせで演出するものなので、「ボカロ一本で食えない」は、その一文自体が既に食えない理由のひとつを表現してしまっており、おもしろい文だなあと思った

これは俺も盲点だったんだけど、人気は欲しいが金には興味のない作り手というのが結構いて、音楽を金に変えたい人からすると、そんなことして数字とっても食えないよ?なんでそんなことするの?みたいに思える行動をとったりする
twitter.com/nick_kiyu/status/1

今日も本物の音楽ではない何かを作曲していくぞ

時々、こういうのが本物の音楽というもので、俺のやっていることは紛いもの、あるいは音楽ではない何かだと思うことがある。
twitter.com/yussefdayes/status

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