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日用的な良識のレベルで、「お金がないとまともな情報にありつけない」のはいかがなものかと思うけど、「きちんとした情報を伝えるからにはそれなりの対価がほしい」とも思う。この構図は深淵なジレンマっぽいものの、ただでは脱がないぞという気分に修辞でお化粧しているだけかもしれない。

(この用語だと不正確かもだけど)オープンウェブが情報の信頼性や保存性を広く保てない仕組みで、その問題を身近に感じるひとがあちこちで現れている一方で、データベース・アーカイヴはこの20年でものすごく充実したし、閉域ウェブ(というと語弊はあるけど社内チャットや有料情報サービス、会員限定グループ)でコンテンツ品質をあげようという動きは近年ますます盛んだったりもし、人類のリテラシーは底上げ途上でインターネットへのアクセス権を持たない国民もまだまだいるし、総じて「まだ足りないが、全然だめではない」くらいではないかというお気持ちにふれた

最突端と最底辺はどこか通じ合えるところがあるという創作の基本パターンはじっさいどれくらいの説明力があるんだろうか

圧倒的な権力差があるとはいえ、本邦代議士に寄せられる「さまざまなご意見」をみていると「心を閉ざすのも仕方ないのかな」と思えてくるから不思議(ファンタジー)

Q.法律もガイドラインも司法・警察も相談窓口も自警団もあるのに言葉の暴力がなくならないのはなーぜだ?
A.道徳はフィクションだから

書籍は経験財でリスク抑止の効用がわかりやすいから、XX円分買うとXX円分以上の「稼ぎにつながる」よりは「損しなくなる」のではないかという説明を思いついた

ぜんぶ世代論にしてみんな若者のせいにしたいけど精神に比して肉体はまだ全然若いんだよなぁ

現代人は全裸で崖から飛び降りて遊んだりせずキッザニア東京やUSJに行く それはそう ほんとそう

筋書きや人物造形でやんちゃしたあと、話の終わりに作者が顔を出して後講釈する構成の中長篇が20世紀第1四半期にわりと見かけて「モダンな言い訳だなぁ(苦笑)」と遠くに見ていたけど、CautionもAfter careもしっかりやるデザインのストーリーテリングがゲームでもアニメでもテーマパークでも論説でも常識的になってくると、テキストのフィクションでも事故防止のために「感動の実話!」とかタグ付けせざるを得なくなって、その措置は顧客クレーム回避のための妥当な安全弁ではあるものの、全裸で崖から飛び降りて遊んでいたような世代には物足りなく感じる。そんな世代がかつてこの国にもあったなんて僕の錯覚でしかないかもしれないけれど…。

すももももももそもそももともともものうち

非線形のプロット生成(俗に「行き当たりばったり」という)も稀少種になるかもしれない。少なくとも出版前にクオリティチェックをふつうにやる書き下ろしの単行本/文庫では。これもそもそももともと少ないけども。

人力マルコフ連鎖とでもいうか、文節や単文の単位で次にどっちへ進むかわからなくてスリリングなナラティブは、まぁborn translatedな作風がありふれてきたときにすでに過去のものとなっていたけど、そろそろはっきり大過去のそれになるのかもなぁ

カレンダーに「夕飯」の定期予定を入れてあるから「もうすぐ夕飯が始まります」と通知が来るのだけど、まだ何も作ってないから始まらないよ!!!

経済の論理の内側でも、クライテリアがまだちゃんとしてない、というあれですね

ポピュラー道徳レベルでは「好き嫌いせずに何でも食べよう」が最大公約数になるのかねぇ(珍味とゲテモノと腐敗品のボーダーラインを食べながら)

つまるところ、その作り手の現在地を起点にして、その表現技術史におけるその試みの高さ、広さ、深さ…etc.を多次元尺度で評価しよう、広告指標や購買指標も特別視せず説明変数のひとつに格下げしよう、と考えることになるし、自然言語処理アルゴリズムの性能研究などではその測定ルールが確立されてきているけれど、日本のコンテンツ産業のDMPは発売後の諸指標を一元管理する段にたどり着いたところで研究開発工程の判断はまだまだ職人の世界、新規事業投資の財務的評価も「詳しいひとの意見」に敏感なKPI設計をとらざるを得ない。しかし「本当の最先端」を知っているひとなど「本当にこの世界」にいるのかは疑問で……。

「うちの村でいちばん新しくて、まだ誰もやってないこと」は「隣の国ではみんな当たり前にやっているふつうの生活習慣」だったりもするし

スタートアップ投資でよく言う「魔の川/死の谷/ダーウィンの海」はあくまで到達目標であって(原理的には)結果論でしか語れないし、研究開発でいう技術成熟度(technology readiness level)は完成品の論評にはあまり使えないので、コンテンツ制作における「先駆け感」をみんな(※多義)が分かるように伝えるのは大変というか、労力的に至難なので、「新しさ」と「読みやすさ」を大切にする作風の作家(例:私)は「売れたいけどありのままで売れる売れ方が思いつかないなぁ」と悩みやすく、悩みやすいので諦観しやすく、諦観しやすいのでガッツを欠きやすいという〈ビジネス課題〉がある。

情報プラットフォーム自体が「大衆社会」の「マスメディア」として「公衆」に受け入れられていることは見逃されがちで、「コンビニのヒット商品」とは何よりもまず「市場シェア1位のコンビニ」なのだけど、ふつうの購買行動が始まるときにはすでに「入店」を終えているので、「その棚で売れてる・品薄・限定入荷された商品」が部分的な流行を形づくっていて、棚支配力とポップさの見分けや、その背後にあるメーカーとバイヤーの攻防は被覆されている、というか。

人気商品には(工夫された宣伝・販促の)価値がある(し、資金繰りに戦略があるから性能・品質も相対的に高くなりやすい)という購買行動がセキュアなのは、レイトマジョリティ層〜ラガート層向けの市場競争が起きているときで、よくあるフィルターに「実家の祖父母でもありがたみが分かる」とか「(業界事情を知らない)妻子が口コミを耳にする」とかあったけど、これは核家族世帯が主流になる前の生活者像を暗に前提としていて、てことは1990年代には陳腐化が始まっていた世界観なのだろうなぁ

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