BUCK-TICKの新譜の衝撃を咀嚼しきれないまま、名古屋では今晩もうライブがある。

まじでさ、あまりに巨大なパフォーマーの死を、遺産として資源化せず軽やかに過去にしつつ、かといってもちろん忘却するでもなく、歴史として背負って現在を更新していくの、素敵すぎる。

新しいアルバムを聴いて、相変わらず最新作が最高傑作であることが素直に嬉しくて、これまで泣かずに聴ける気がしなくて聴けなかった過去作も、ようやく屈託なく聴ける気がしてきた。

ということで、今は『或いはアナーキー』を聴いています。

“――フロントマンとして歌うことになり、心がけたことは何かありますか?
今井 まあ、元気よく歌うことです(笑)。”

なんか、感傷バフとか抜きにしてもかなり好きな感じのアルバムで、素直にライブが楽しみで嬉しいな。元気いっぱいなとこ見たい。

lp.p.pia.jp/article/news/40733

当然、今井寿のバンドという感が強まるのだと思っていたのだけど、想定していた「ぽさ」を飄々と躱す引き出しの多彩さに驚いた。むしろ星野英彦の凄みをこそ思い知った気もする。BUCK-TICKはあるひとりに還元できるものではなく、バンドなのだ。なんだこれ、すごく嬉しいな。

『スブロサ SUBROSA』、けっきょく昨晩は帰宅してからあまり時間と体力がなかったから、今朝の通勤で聴いた。家から歩き出すと、大通りを朝日に向かって歩いていくことになる。「百万那由多ノ塵SCUM」の歌い出しに不意をつかれるのと、思いがけず明るい日射に目が眩んだのが同時だった。

昼休憩に『スブロサ SUBROSA』を買った。家にCDが再生できる機器がないかもしれないことに気がついた。

柿内正午 さんがブースト

例えば1980〜90年代ぐらいまでは、漫画本やロックのレコードを自主制作&自主流通するようなことも、大資本に占有されたインフラ状況へのカウンターパンチになり得た。しかしプラットフォーム資本主義以降は、インディレベルで既存インフラに対するカウンターを仕掛けることが、とても難しい。

どんなアクションも、大資本が用意するプラットフォーム上のいち商品としてしか成立し得ない。インフラレベルでカウンターを仕掛けること・既存状況を否定することの難易度が、果てしなく上がっていく。表現のレベルでカウンターであっても、インフラのレベルでは大資本の論理を飲むしかなくなっている。

スケールすることこそが正義という感覚は、ビジネスのレベルだけでなく文化表現のレベルにおいても、この10年ほどで深く再強化されたと思う。自立性や個人主義的思考は、どんどん蔑ろにされていっている。

昨晩はメリーのライブを見ていて、ああ、BUCK-TICKの子だ、とステージの愉快さに反して感傷的になってしまっていたから、余計に「冥王星で死ね」で大笑いできたことが嬉しい。

「冥王星で死ね」を聴いてげらげら笑って、ようやくBUCK-TICKを聴き返せるようになってきた。

ずっとよくわからないまま共感を示すふりをして乗り切ってきたんですけど、いよいよわからなくなってきた。「何者かになる」ってなんだ?

なれると何が嬉しくて、なれないと何がよくないのか。なるならないの成否はどのように判断できるのか。

きょうのLife、いつも以上に心がけるべきこと。「実感の伴ってないきれいごとをいわない」、「背伸びしないで、考えの浅さやなさをこそ出す」。

書くと送るのあいだに、まったく別種のコストを挟むことの大事さ。

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授業中に机を行き来する手紙と、市場に流通する活字とが液晶上という同じところで巡っているのがよくないのだ。私的な発信は手書きで手渡し。これに限る。少しでも公的な性格を持たせたいのならば、ガリ版でもいいから印刷すべき。紙のよさはそのような文字の流通するレイヤーがあからさまであるところであろう。

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SNSによって「いまこのわたしが何をしているか」を簡便かつ気軽に擬似的な活字として発信できるようになったということの途方もなさを思う。

大半の生活者にとって文字は親密圏内での具体的な人間関係のなかで流通する道具であって、文字を外在する物質のようなものとして知覚する必要がない。書かれたものがそのまま自分ということであまり問題がない。

現在の素朴な活字制作者の多くは活字の物質性に頓着せず、ベタに自身の実存の重ねたものとして感覚する。そのような事態の進行が、書かれたものと文書制作者とを同一視するような、(ダメな)読解を促進している。

不特定多数へ向けて何らかの効果を及ぼすことを目指して文字列を構築する。そのような意識をもって制作された文章を、友だちからの手紙と同じ位相で受信してしまうことで生じた情動への補償を書き手の側に求めるというのは、不毛でしかないはずなのだけれど。誰もお前に向けてなど書いちゃいない。

あるいは、親密圏でだけ通用すれば用の足りる文字列を、厳密な読解対象として俎上に載せてあげつらうのもまた外野からの鬱陶しいお節介以外の何ものでもないのだろう。

できることならお客じゃなくてホストの側にいたいというのが、自分の行動原理なような気がしてきた。

マスクを忘れて気がついたが、街というのはこんなに臭うのだな。

まじで意味がわからん。死とかいうやつ。

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