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SNSによって「いまこのわたしが何をしているか」を簡便かつ気軽に擬似的な活字として発信できるようになったということの途方もなさを思う。

大半の生活者にとって文字は親密圏内での具体的な人間関係のなかで流通する道具であって、文字を外在する物質のようなものとして知覚する必要がない。書かれたものがそのまま自分ということであまり問題がない。

現在の素朴な活字制作者の多くは活字の物質性に頓着せず、ベタに自身の実存の重ねたものとして感覚する。そのような事態の進行が、書かれたものと文書制作者とを同一視するような、(ダメな)読解を促進している。

不特定多数へ向けて何らかの効果を及ぼすことを目指して文字列を構築する。そのような意識をもって制作された文章を、友だちからの手紙と同じ位相で受信してしまうことで生じた情動への補償を書き手の側に求めるというのは、不毛でしかないはずなのだけれど。誰もお前に向けてなど書いちゃいない。

あるいは、親密圏でだけ通用すれば用の足りる文字列を、厳密な読解対象として俎上に載せてあげつらうのもまた外野からの鬱陶しいお節介以外の何ものでもないのだろう。

授業中に机を行き来する手紙と、市場に流通する活字とが液晶上という同じところで巡っているのがよくないのだ。私的な発信は手書きで手渡し。これに限る。少しでも公的な性格を持たせたいのならば、ガリ版でもいいから印刷すべき。紙のよさはそのような文字の流通するレイヤーがあからさまであるところであろう。

書くと送るのあいだに、まったく別種のコストを挟むことの大事さ。

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