自分語りは悪いことではなくて自己を相対化するためにも必要なステップなので、インターネットが実現した拡声器へのアクセスの容易さによって誰でも屋上のようなところから大きな声でどうでもいい自分の考えや感覚を発表できる可能性をひらいたこと自体は、いい面の方が大きいように考えている。
でも、大半の人は自分がどうでもいい存在であることを認めるのが耐え難い。自分を語ることによって「どうでもよさ」が露呈するのを恐れ、代わりに他人のことをとやかく言うほうが楽だったから、拡声器を得たあともテレビの前の独り言と同じように他人のことばかり言うだけだった。
自分語りを忌避し、他人事へ嘴を突っ込むことを社会的意義のあることのようにのめり込むことは、見かけに反して自己愛の甘やかしを増長させていく一方な気がする。
うちはうち、よそはよそ。
よそのことをうちの理屈で語るのはみっともないし、うちのことをよその理屈で語るのも卑屈だ。自分のことを自分でバラし再構成することをサボらないほうがいい。よその理屈は自分だけではどうにもならない困難をいなすための杖としてだけ使えばよくて、それだけを原理原則として自分の判断を明け渡しすぎてもおかしなことになってしまう。自分のことには自分しか興味ないのだし、自分で自分なりのよさを確保するしかない。