今日は久しぶりに彼女ちゃんの些細な食い違いで起こった小さな互いのすれ違いからネガティブまっしぐらな思考になり自分も含めて私にも思ってもいないことを思いっきりぶつけてしまう。に巻き込まれて。
本来は誤解を謝れば済んだ話がどっかんどっかんネガティブ誘発して...
彼女ちゃんのネガティブな言葉を真に受けてしまって、結構しんどくなった....疲れた...
ボルダリングを始めて気付いたら一年近く経ったのだけれど、筋肉のつきかたが本当に気持ちいいくらいに付いてとても嬉しい。
と同時に成長期が終わって大分経ってから本格的に始めたスポーツで。今の筋肉のつきかたを思うと、かつて小学生の時から兎に角すごい運動量と食事量でやってた卓球で全く筋肉も肉もつかなかったの、これ成長期で食った分全部成長に使われてて筋肉に回す余裕がなかったからでは?という気付きに至った。
子どもの成長期すげぇ。というのと、年齢で体質変わるってこういうことかぁ。って身を以て体感している💪
カトリックのミサでは信仰宣言を必ず唱える。
その中に聖なる普遍の教会を信じる。事を宣言する部分がある。
「普遍の教会」は私を含めた信仰している人間全てを含むこのカトリック共同体自身を意味している。
だから、私は信じている。どんなにトップが盲目でも、盲者に率いられた集団がコントロールを担っているとしても。
カトリック共同体が盲者の目を明るくさせられる教会であることを信じている。
実際同性愛者への祝福を可能にした。クィアだって存在している聖なる普遍の教会を信じた思いと祈りが伝わったのだと。
だから、次の変革も信じる。私たちが祝福を受けられるようになったのだって、私だけでなく姉妹たち、兄弟たち、その間の人たちが祈ってくれたからだから。
私も祈り信じる。姉妹たち、兄弟たち、その間の人たちのために。
あとバチカンはちょっといっぺん解体しな。
今学期の授業で美術史におけるジェンダースタディーズとポストコロニアリズム概論をとっているんだけれど、学生の中になんというか、BLMの時にall lives matterと主張する。女性研究者のアカデミックでのキャリア構築の問題はお手伝いさんを雇えば解決。という考えの学生が居て。
もともと70年代、80年代頃に現役で男性社会に混じってキャリアを重ねてきた。という年代の学生で。(美術史学部は学部の性格的に退職後にセカンドキャリアで大学に学びに来ている学生が多く、かなり平均年齢が他学部と比べて高めの傾向がある。親世代の同級生とかざらにいる。)
恐らくフェミニズム運動を間近で体験してきたし、当時からのフェミニストという事もあり得るのだけれど。
ただ、男性が多い業界にいたのか男性社会に迎合して溶け込む形で生き抜いて来たのかもしれない。と思わせる人で。
この授業がこれまでの辛さを軽くするものであってほしいなぁと…
すごく信頼している神父さんと彼女と一緒に夕飯を食べて。いっぱい色んなお話しをしました。
彼女も紹介したかったし、私たちの婚約を飛び上がるほど喜んでくれた人なので…
本当に善き人です。
因みに中華に行ったのですが、汤圆を食べた彼が「神は存在した!!!」とあまりの美味しさに感動してました。ちょっと笑った。
あとはあれか。自分に向かって投げつけられる外国人という言葉が自分の内面にある外国人像に影響を与えているが故に想像力の限界を越えられず外国人差別の話で食い違うんだな。
彼女ちゃんが投げつけられる外国人にはオーストリア国籍ではない人という意味が付与されていて彼女ちゃん自身の内にある外国人像も同じくオーストリア国籍ではない人。という像がある。だから彼女の言う外国人はオーストリア国籍ではない人全てを内包しているため私もそこに含まれている。
けれど私に投げつけられる外国人という言葉には非EU圏非ドイツ語圏出身者という意味が付与されていて、私も自分がその意味での外国人だと理解して更に自分の内面の外国人像を作り上げてその意味で外国人と口に出すため私の言う外国人像には彼女ちゃんが含まれない。
人間の想像の限界もある。自分事に置き換えて考える場合自分の語彙と理解の範疇を越えられず、外国人差別の話題になる外国人は脳内で私と似た姿をしている。決してヨーロッパ人の見た目でドイツ語母語の姿をしていない。寧ろオーストリア国籍を持っているが見た目がヨーロッパ人ではない人も私の外国人像に含まれる。
そこがあるから話が食い違うんだな。
問いをぶつけるにしても私じゃないんだよなぁ…
私からすると、お前ら双方ドイツ語圏なのに外国人ってお互い認識してなんか差別してんの?そんな文化違うんかー。ぶっちゃけその違い私には大まかにしか見えてないし、オーストリア人にドイツ人やから外国人扱い受けてる私も外国人差別の当事者じゃない?と聞かれても。
それ、私に聞かれても、正味あんたらのことはおんなじ言語圏の人で外国人言われて差別や!というのは分かるが私や他の人が立ち向かってる外国人差別の文脈とちょっとちゃうのでは?そこはドイツ語文化圏で隣同士でちょっと違ってるだけの他者をなんでか差別しあって失礼言葉ぶつけ合ってるあんたら内で解決すべき外国人差別というか他所もん差別であって…つかそれドイツやと旧東と西とか北ドイツとバイエルンとかでも似たような他所もん差別やってるやろ…っていう。
聞く相手私じゃないし…私に言われてもそこら辺の機微は分からんし…問題やとは思うが私の問題ではない。っていう。
最後の「非EU国民外国人問題」は構造的差別にあっている人たちの問題で、1つ前の「EU国民外国人問題」の人たちが有している移動、居住、労働の自由が制度によって阻害されている。そう法律が定めたせいで、「非EU国民外国人問題」はこれまでの『外国人問題』と「EU国民外国人問題」に加えて構造的差別の被害者でもあり。3重の差別的感情に晒されている。という問題で。
それにより、どのカテゴリーも差別を受けているんだけれどその重度が違うせいで、それぞれのカテゴリーの間に特権を有する存在『外国人』「EU国民外国人」とそうでない存在「非EU国民外国人」を産み出してしまった。
で、その差別の重度が存在しているという認識を持たない状態で"外国人問題"を話そうとすると話が通じにくくなる。
つまり、ほんとに"外国人問題"を考えるというなら、言語能力差別と言語ヒエラルキー主義を辞めて解体し、非EU国民に対してEU国民と同じ権利を与えてから初めて対等に語れ得る問題なんではないだろうか。と思う。
これはドイツ語圏の人たちやEU全体がまず構造化された差別と主義を解体すべきで。そこを考えない人間が「非EU国民」に対して彼らの立ち位置からの"外国人問題"を語ろうというのはあまりにも驕った態度ではないかなと。
彼女ちゃんと話してて、よく挙がるテーマが所謂『外国人』問題で。
オーストリア人はドイツ出身の彼女を『外国人』と扱うが、一定数の「外国人」(ここには私が含まれる)は彼女のことを何故「外国人」と見なさないのだろう。という話で。これは明らかに受け入れ国の方とEU法が悪いとは思うんだけれど、この異なる「外国人」と『外国人』を同じ"外国人問題"としているのが話を見えにくくして、かつ分断を煽っていると思っていて。
前者の『外国人』は私の捉え方ではドイツ語圏出身者としていて「外国人」はEU圏内非ドイツ語圏出身者「EU国民外国人」と更に細かく分けると非EU圏非ドイツ語圏出身者「非EU国民外国人」が存在している。
前者の『外国人問題』は同質性を強制する社会の問題というかホモソーシャル的社会が原因で。関西人と関東人で互いに差別しあってる。みたいな問題で。
後者の方「EU国民外国人問題」の方は言語能力差別や言語ヒエラルキー主義の問題であって、また前者とは違う。
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