星の存続のために命を捨てた者が古代人の中には多くいる。それと命の価値を釣り合わせるなら、やはり現生人もまた星のために命を進んで捨てなくてはならない(それもできないのにどうして自分達が古代人と「同じ」だなんて言えるのか)、というのがエメトセルクの主張な訳だけれど、それにはちゃんと物語の中で答えが出ていて、つまりはグ・ラハやアルバートは、ヒカセンの未来のために命や魂を自ら手放そうとした、あるいは手放した人々なので、彼らはエメトセルクの思考の枠組みから見ても「古代人並み」ということになる。
その上で思うのは、アリゼーがグ・ラハにデコピンした時の言葉。そもそも、そんな風に命を捨てないで欲しいという感情がヒカセンや暁の人達にはあるし、エメトセルクにだってきっとその感情はあった。
命や魂や人格の価値について云々するなら、そもそも命を秤にかけるようなこと、つまり命を何かのために投げ捨てようとするのを思い留まって欲しい、だって貴方が持っているそれは、相対的ではなく(つまり本当は天秤にかけることのできるようなものではなく)絶対的な価値があるものなのだから、というのが、いつも置いて行かれてしまうヒカセンの心の中なのではないか、アリゼーとアルフィノはそのことを理解してくれているのではないか、というようなことを感じました。
ゾディアークに捧げられた全古代人の内の半分の命を天秤の片方に乗せた時、右に同じだけの数の「今の人間」の命を乗せて釣り合うと思うのか、という話なんだよな、エメトセルクの言っていることは。
エメトセルクにとっては彼らの命は何者にも代え難くて、他のものでは代わりにならない、贖えないくらいのものだから、だからゾディアークに他の命を捧げて取り戻そうとしている訳だろう。
彼の心の中の最も美しいところ、最も善良なる特別な席を与えられた人々が、命を踏み潰す理由になっているのが辛い。それは例えばヒカセンで言うと、オルシュファンと他の人を引き比べて他の人を「劣っている」と見なすような営為じゃないか、と思う。
勿論、エメトセルクが突きつける言葉はそのまま「事実」ではないと言って良いと思うのだけど(善良でない命も、善良な命と同じだけ価値がある)、あのような場でそれを彼に突きつけて議論に破れ目を作るのはかなり厳しい訳だからなあ……。
「私達は古代人のジャッジの対象じゃない」と言ったところでエメトセルクは(あるいはアシエンは)ジャッジしてくる。エメトセルクについてだけ言えば、ジャッジは無念さと、今の人間への苛立ち、失望、といったものの表出でもある。その無念さを「理解しない」なら単に戦争をして終わるだけなのだけれど、ヒカセンをはじめ暁の人はそのようなことは絶対にしない訳で、でもそうやって無念さに一定の共感を示すからこそ、ジャッジを跳ね除けることができない。
……言いたいこと迷子になっちゃったけど、エメトセルクの言葉選びは、ザ!差別!って感じなんだよな。古代人による今の人間差別……。それがすごい刺さる……。
「漆黒のヴィランズ」、エメトセルクとの対決直前まで来た。
エメトセルクが放つ言葉のしんどさというのは、「生まれながらにしてお前達は劣っている」という響きのしんどさ、しかもそれが今のところかなり「事実」であるとしか思われないしんどさだな、と。
命の価値は古代人であれ今の人間であれ平等だ、と言い返しても言い返したことにならないのは、ゾディアークのために善良な古代人の半数が我が身を犠牲にしたという話があるからだろう。お前はそれができるか?そのような善良さを人間に期待できるのか?できないじゃないか、と言われると、もう返す言葉がない。
そこで提示されるのが知性や能力の高低/多寡といったものであれば、単なる能力主義でしょと言えるけれど、そこで自己犠牲とか善良さを提示されると、という。
ガレマルドに潜入中のニャン、何か小洒落た服着てて「お前……」って気持ちになりましたとさ。あと久しぶりに見たら凄い顔の良いキャラだなお前……という良く分からん感想を抱きました。
ニャンは、彼という一人の人間が好きという部分もあるが、同時に彼はヒカセンがイシュガルドの物語の一番最後にアルフィノと共に守った命でもあるので、ニャンをただ一人の人間として好いているというよりも、助けられなかった多くの人の分だけニャンが好き、みたいなところがあるんだよな……いやこれは私がそうってのもあるけど多分ヒカセンもアルフィノもそうだと思うんだよ……。
どう似ているんだろうな。神の国建設は「抵抗」じゃない筈なのだけど。でも私、今もこの感覚をクリスタリウムに行く度に感じる。恐らく「世界を照らす闇」のメロディから直感したことなのだろうと思うのだけど……。
神の国建設は、いつか千年王国が現実のものとなる日が来る……とはいうけれど、イエス・キリストの時代から今まで、まだ完成を見ていない。建設は始まっているけれど完了していないんだよね。
そして我々は……という言い方で良いのか分からないが、とにかく神を信じる者は、この神の国に住まう者として、国の完成が近づいてきつつある中を生きている。
このような漸近的な希望のあり方がクリスタリウム的に思えたのだろうと思う。今すぐ罪喰いに打ち勝つのは無理、それでも抵抗を諦めない、安全や幸福を諦めない、少しでも死守し、少しでも明るくしていく……というそのありよう……。
ヒカセンにとってのオルシュファンは陽子にとっての蘭玉、というのを折に触れて思っておりましたが、暗黒騎士の紅蓮ジョブクエを開封して、ミストくんと出会って、やはり………………。となった。あれ、蠱蛻衫を纏った梨雪を蘭玉に似ていると思った陽子じゃんか……ていう……(多分ミストくんはフレイとかに近しい存在なんだろうから、別の人間が化けている訳ではないけれど)。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。