「生きることを諦めさせたくない」って結構独特の感情。オルシュファンもイゼルも生を諦めたんだよなある意味では、と。ヒカセンや仲間の生のために自分の生を投げ出した。その選択の先に光明があると信じた。
でもそれじゃ嫌なんだよねアルフィノもヒカセンも……。そういう選択について、真に仕方がなかったと思えなくて、だからエスティニアンを助けるんだよな〜……。
真に仕方がなかったとは思っていない、んだな、うん。そう、だからエスティニアンを助けたいんだよな。だからオルシュファンの死やイゼルの死を見過ごしたことというのは、ヒカセンにとってもアルフィノにとっても、自分達の態度として無謬ではあり得ないのではないかと思った。やはりどこか、「自分はあの人を死なせてしまった」感があるのだろうと。
エスティニアンを助けたいと思うアルフィノとヒカセン、その後ろには確実に「大切な人を助けたい」と思って死んでいったイゼルとオルシュファンがいて、そうじゃない、私だって貴方達を助けたかった、生きることを諦めさせたくなかった、って気持ちがアルフィノの中でぐるぐるする感じがある、あの雪の家のシーンが本当に良かった。
エスティニアンのために死ぬんじゃなくて、エスティニアンと共に生きたいと思ったアルフィノなんだろうなあって。その決意が未来のアルフィノの、マキシマやガイウスとの行動に繋がっている感じがする。
エスティニアンも、「殺してくれ」って言葉を彼とヒカセンに拒まれたことの意味を、ちゃんと分かって生きている感じがして、あ〜本当に蒼天は良いなあ……。
阿選はカミュ作品と思い、フェルディナンドはレヴィナスの思想だなと思ったが、ニャンはオルテガだな〜と思う。死者に忠誠を誓う男なので。
ニャンは推しではないと思うが……(イシュガルド箱推しです)
黎明秘話の「空席の玉座」で描かれるアイメリクは、不条理への怒りを胸に秘めた少年という印象だったのだけれど、その「怒り」はどこへ行ってしまったんだろうなあ。いや、今でも勿論胸の中にあるのだろうけれど、どこかで怒り以外のものが怒りを追い抜いていったんじゃないかな、という印象を持った。怒り以外のものというのは、例えば優しさとか、正義感とか、性善説に立ってものを見ようとする決意とか、分からないけど何かそういうもの。
ff14鯖の方でも書いたけど、オルシュファンのあの行動に不完全な部分があるとすれば、それは一人で全てを受け止めようとしたことにあるんだろうな、というのを蒼天幻想(極ナイツ)のスピアオブハルオーネで感じた。
そしてそれは裏を返すと、ヒカセンやアルフィノに過ちがあったとすれば、それもやはりオルシュファンとと共に攻撃を受けるという選択を思いつけなかったことにあるんだろう、ということにもなる。
「蒼天幻想」は異邦の詩人が弾き語る「物語」な訳で、ということはヒカセンはあの物語を詩人から聞いた訳だよね。
スピアオブハルオーネのくだりを聞いて、ヒカセンは何を思ったんだろうなあ〜……というのを色々と考えてしまう。
アイメリクさん、基本的に周囲から祈られる存在である感が強い。祈られるというのは信仰の対象って意味ではなく、「より善い未来のためにあってくれ」「生きてくれ」「私のこの望みを背負ってくれ」と思われる対象というか……。いや実際そうだしな。ハードな人生だろうなあと思ってしまう。
彼も結構そのことを宿命として受け入れている節があり、その役目を喜んで務めること以外を自分に許してない印象なので、マジでキツくない?平気?って思う。
漆黒のヴィランズ、まだクリスタリウムしか知らないところで止めているのだけど、何となくクリスタリウムの街を見て『聖書』の神の国のことを思い出した。
「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(新共同訳『聖書』マタイによる福音書4:17)
「私たちは何ものにも滅ぼされない御国を与えられているのですから、感謝の思いときよい恐れとをいだいて仕え、神に喜んでいただこうではありませんか」(『リビングバイブル』「ヘブル人への手紙」12:28)
クリスタリウムは光の氾濫に抵抗するための拠点みたいな面があるのだと思うのだけど(NPCの言葉からそういう印象を受けている)、単に分かりやすい形で……例えば武力とかで抵抗することのみを「抵抗」と捉えているのではなくて、人間が生きる意義を感じられるような、幸せだと思えるような生活圏とか文化圏を整備することも「抵抗」の一環だ、みたいに考えている人々がこの街を作っているのかなという印象。
それは結構、キリスト教における「神の国建設」に似てるなあと感じる。
紅蓮のリベレーターで最もモヤモヤした点
具体的に改善すべき点を挙げるとしたら以下のような感じかな。
・ベストを考えるなら、エオルゼアと同じように、現実の国や地域と架空世界の国や地域を一対一で対応させないという方針を貫くべきだった。日本、中国、韓国、モンゴル、ベトナムといった地域の建築や衣服や名前などを、もっと徹底的にシャッフルしたりミックスしたりすべきだった。
上記が無理なのであれば、
・紅蓮で新しく実装されたジョブであるサムライと忍者の内、どちらかを中国風のものもしくはモンゴル風のものにすべきだった。
・オサード小大陸の人々の名前に中国風もしくはコリア風、ベトナム風の名前を混ぜるべきだった。現状、日本語風の名前しかないので(漢語風の名前も日本語として意味が通じるものしかない+漢字一字の姓であることを窺わせるキャラクターが皆無)。
・ダンジョンのモチーフや討滅戦の敵となるボスに、中国や韓国、ベトナムの神話や伝説に由来するものを採用すべきだった。一応四聖獣はいるけれど、全体として日本昔話風のテイストで進行していて、結局は「日本列島の人々が中国文化を受容した結果としての四聖獣」感が強いので。
紅蓮のリベレーターで最もモヤモヤした点
ドマが現実の中国に相当する地域であるなら、ドマにサムライや忍者がいるのはやっぱりおかしいし、中国的な地域を日本文化で侵食する描き方は戦前的なアジア主義への接近を感じるし、非常に嫌悪感と危機感を覚えた。
多分制作チームの人々はそこまで物を考えてこれを作っている訳ではなくて、単に中国風のものを描くのに情報や資料が足りなかった、厳しい言い方をするなら勉強していなかったのだろうと思う。中国文化や中国史に詳しいスタッフ皆無で勉強もせずに作った結果、「日本風にしておけば何となくそれっぽいでしょ」という感じで誤魔化してしまったのかなと想像する。
中国風のものが描けない、情報や資料や知識が不足している、という場合に「日本風のものを代わりに当てれば良いじゃん」と考えてしまう、その発想自体が中国的なものへの軽視を感じてしまって嫌だった。
あと、好みの話にはなるけれど、クガネ〜紅玉海のネオジャポニズム風の雰囲気も非常に苦手なので見ていてしんどかった。ネオジャポニズムとかYOSAKOI的な「和風」というものは何というか、日本語話者のオリエンタリズムの内面化の表出という印象で、上述の無意識のアジア主義と表裏一体の醜さを感じてしまうので、本当に私はドマ編がしんどかったです。
紅蓮のリベレーターで最もモヤモヤした点
クガネ〜紅玉海〜ドマの文化について
エオルゼアは現実世界の様々な地域の文化をモデルとしつつも、「この国は現実のこの地域がモデル」というような一対一対応を避けつつ、人種や言語が混じり合う多文化共生圏的な世界である、という描かれ方をしている。
でもオサード小大陸の諸地域は(少なくともクガネとドマとヤンサとナグサは)そうではなくて、明らかに現実の東アジア世界をモデルとしている。ひんがしの国〜紅玉海は日本、ドマは日本〜中国、ヤンサはモンゴル、ナグサは中国〜ベトナムをモデルとしていることがはっきりと分かる。現実の文化圏、文化様式をファンタジー世界に反映させる際の手法がエオルゼアと異なるというのが、まず一つ気になった。
問題を感じるのは、現実の文化圏をそのまま一対一対応でファンタジー世界に当て込む場合に、製作者の所属する文化圏である「日本」的要素だけがやたらと肥大してしまっていること。具体的に言うと、ドマやが「中国的な地域」ではなく「日本〜中国的な地域」として描かれた結果、クガネや紅玉海と合わせて日本的な要素がやたらと増えてしまっていて、中国風の要素が限定的にしか描かれない結果になっている。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。