星の存続のために命を捨てた者が古代人の中には多くいる。それと命の価値を釣り合わせるなら、やはり現生人もまた星のために命を進んで捨てなくてはならない(それもできないのにどうして自分達が古代人と「同じ」だなんて言えるのか)、というのがエメトセルクの主張な訳だけれど、それにはちゃんと物語の中で答えが出ていて、つまりはグ・ラハやアルバートは、ヒカセンの未来のために命や魂を自ら手放そうとした、あるいは手放した人々なので、彼らはエメトセルクの思考の枠組みから見ても「古代人並み」ということになる。

その上で思うのは、アリゼーがグ・ラハにデコピンした時の言葉。そもそも、そんな風に命を捨てないで欲しいという感情がヒカセンや暁の人達にはあるし、エメトセルクにだってきっとその感情はあった。

命や魂や人格の価値について云々するなら、そもそも命を秤にかけるようなこと、つまり命を何かのために投げ捨てようとするのを思い留まって欲しい、だって貴方が持っているそれは、相対的ではなく(つまり本当は天秤にかけることのできるようなものではなく)絶対的な価値があるものなのだから、というのが、いつも置いて行かれてしまうヒカセンの心の中なのではないか、アリゼーとアルフィノはそのことを理解してくれているのではないか、というようなことを感じました。

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エメトセルクは古代人の命と現生人の命を秤にかけて、前者が後者よりも重いと主張する訳だけれど、きっとそもそも命は秤に載せられない、秤では計量できない類の価値を持つもので、アリゼーがデコピンした時に言いたかったのは正にそのようなことであり、アルバートがヒカセンに自分の魂を差し出したのも、正にそのような意味の上でではなかったか、と思う。

アルバートが自分からヒカセンに魂を「統合」したの、色々考えちゃう。

彼は幽体のような状態で百年近く第一世界をさまよっていた。その間ずっと、人々を助けたい、助けようと願いながらそれを叶えられなかった。

彼にとってヒカセンは、久しぶりに関わりを持てる他者だったし、自分が働きかけられる、助けようとすれば助けられるこの時唯一の他者だった。
そして彼はあの時偶然にも、ヒカセンを助けることができた。助けられるだけのものを持っていた。それは彼にとってとても嬉しいことだったと思う。自分の生きる「意味」は、他者の助けであること、自分の生は他者に支えられて、また他者を支えるその関わりの中にあるのだと、彼は最後に確信し、実感したのだと思う。

魂の統合は、アルバートという一人の人間の本当の意味での死であり、旅の終わりなのだけれど、そこでブツっと何もかもが途切れるのではなく、別の形で今一つの旅が続いていく。他者を助けることで彼の旅は終わり、彼という器は空けられた。彼の中身は捨てられることなく、他者の助けとして別の器へ引き継がれた。
それは彼が少しも無駄にならなかったということ、彼の生の全てに意味があり、価値があったということなのではないか。だからやはり彼の生こそが(現生人から)エメトセルクに対する「NO」なのだと思う。

エメトセルクが最後に、「ならば覚えていろ 私たちは……確かに生きていたんだ」とヒカセンに言うのも、実はアルバートの人生には意味があった、価値があった、というのと同じことを指しているように思う。「私たちは確かに生きていたんだ、生きて喜怒哀楽を享受し、選択を繰り返し、他者と関わり合って生きていた、その営みがあり、暮らしがあり、人生があり……。それら全てにかけがえのない意味と価値があったのだ。あれを再び取り戻そうとする行いを拒むというのなら、せめてそのことを覚えていてくれ」という意味ではないのか。

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