竜騎士の竜尾大車輪はヒートテイル、竜牙竜爪はヒートウィングなのでは?という話をぶるすこでした訳だけど、これはニーズヘッグ征竜戦で邪竜の影がエスティニアンの姿を取った時、ゲイルスコグルを使うことから想像が膨らんで、こんなことを言ったのだった。
作中の視点で言うならば、竜とイシュガルドの人間とが戦い続ける中で、竜騎士が竜と渡り合うために竜の戦い方に自らを寄せていった歴史というのもあるだろうし、竜詩戦争が終結するに際して、エスティニアンという人が仇敵ニーズヘッグとどうしようもなく近似の存在になった経緯というのがあって、それが(エスティニアンやヒカセンが自らのジョブであると認識するところの)竜詩戦争後の竜騎士を規定しているという風にも言えるだろう。
で、そういう目で竜騎士のアクションスキルなり、エスティニアンの描かれ方なりを見直すと、結構色々なことを考える。
エスティニアンは暁月で錬金術師たちに「竜血を浴びた人間」と形容されている。この「浴びる」というのはどういうニュアンスを含みうる言葉なのだろうな、と考える。
竜血は、イシュガルドの人間が摂取するとその身を竜に変える劇薬でもある。それはフレースヴェルグの言った通り、イシュガルドの人々がラタトスクの眼を食らったトールダンとその麾下の末裔だからだ。彼らの血に流れる竜の因子に竜血が反応して、竜に変貌する。
イシュガルドの人々に竜の血を飲ませ、自らの軍門に降らせる、それがニーズヘッグの目論見だとフレースヴェルグは語っていた。
また、ニーズヘッグは、己の眼を雲海に投げ込もうとするエスティニアンに対して次のように語りかけていた。
「長らく、我が眼の力に触れ、さらには全身に我が血を浴びながら、よく耐えてきた」
要するに、(イシュガルドの)人間が竜の血を身に受けるというのは、多かれ少なかれ竜に接近すること、人間という存在を離れて竜という存在に接近すること、を意味するのだと思う。
竜の眼の力を用いることは、眼の持ち主の精神への接近を意味する。エスティニアンはニーズヘッグの眼を何度も使い、そのことによってニーズヘッグの精神と接近し、これに乗っ取られることになった。
ならば竜の血を身に受けることは、人間の肉体を離れて竜の身体に接近すること……を意味するのかもしれない。そんな風にも想像できる。
ニーズヘッグがエスティニアンの身体を乗っ取ったのは、ある意味では苦肉の策、逆襲の策だった。見方を変えれば、竜はそこまで追い詰められでもしないかぎり人間になろうと思わないのだろう。
そこにあるのは竜と人間の根源的な非対称性だ。人は竜を畏れ、憧れもするが、竜は人に対してそのようではない。竜は人より強い。少なくとも「蒼天のイシュガルド」における竜と人間の力関係はそのようなものだったと思う。
ニーズヘッグは限りなく弱められたからこそ、今まで考えもしなかった「人に接近する」ことを試みた。その結果邪竜の影が生まれ、エスティニアンはニーズヘッグの心を、もう一つの我が心のように理解することになった。
エスティニアンが竜血を浴びた人間であるというのは、単に彼が竜を屠った人間であるという意味に留まらない。彼が浴びた竜血とはニーズヘッグの血であり、それはその時の彼にとって仇の血だったのだが、その一方で彼や彼の属するイシュガルドの人々が、千年をかけて「接近」してきた存在の血でもあった。
そしてその「接近」の最後の一歩を、ニーズヘッグの方から詰めてきた。そこで人と竜とが重なり合って、邪竜の影が生まれた。
エスティニアンが「竜になった人」ではなく「竜血を浴びた人」であるというのは、竜からの最後の一歩を受け入れる側にあったということだし、その後肉体と精神とを全き形で生きながらえさせたのは、ニーズヘッグではなくてエスティニアンの方だった、ということを意味してもいる。
人が竜に接近するばかりではなく、竜が人に接近することも、竜とイシュガルドの人々の間には必要だった、ということのようにも思う。人間に対するニーズヘッグの驕りがトールダンの猜疑を生んだのだから。