廣野由美子『謎解き「嵐が丘」』の中で、キャサリンとヒースクリフはドッペルゲンガーであり、だからこそ二人は物語の展開上結婚できない、というような解釈が提示されていたのだけど、これは結構『本好きの下剋上』におけるローゼマインとフェルディナンドにも援用できる考え方だなと思う。
どういうことかというと、まずローゼマイン(マイン)は第二部の時点でフェルディナンドの魔力に染まって二人は魔力的にほぼ同質の存在になっている。エアヴィルミーンが同一人物と間違えたり、同じ最高神の名前を授かったり、世界を創造した存在から同一存在と見做されかけるほど同質性が高い。
また別の側面でも、フェルディナンドとローゼマインは近似の存在と言える。フェルディナンドが保護者として貴族社会でローゼマインを育てていく上で、「自分のような存在」になるよう彼女に求めていた節があるからだ。
例えば貴族院で最優秀を取れというのは、彼がかつてそういう存在であることを周囲の大人から要求されたことの反復だし、領主一族としてアウブの補佐をする存在になれというのは、兄を助けられる存在でありたいという彼の切なる願いがローゼマインに投影されている証だということができる。
一方で、ローゼマインはフェルディナンドのドッペルゲンガーであるばかりではない。高い同一性を有する一方で、彼にとってかなり強烈な他性を持った存在でもある。
それは彼女が平民の生まれ育ちだからであり、同時に家族に深く愛し、愛されてきた存在だからだ。フェルディナンドは自分と同質な存在になることをローゼマインに求めたが、同時に彼がそのようにローゼマインに深く関わり、目を向け続けるのは、彼女の中に全くの他性、彼がとうてい得られるはずも成り代われるはずもない他性があるからなのだ。
物語の中盤、王命によって二人は離ればなれになる。違う環境に身を置かざるを得なくなった結果、ローゼマインはフェルディナンドの影響下から離れ、彼女自身の意志のもとに冒険し、危険に足を踏み入れながら大人になる。第五部とはそのように、ローゼマインがフェルディナンドのドッペルゲンガーの立場を降り、一人の人間「ローゼマイン」を確立する過程なのだと言えるように思う。そしてもちろん、一人の人間「ローゼマイン」は、フェルディナンドにとって一人の他者として彼の命を助けたのである。
物語のクライマックスでは、ローゼマインは英知の女神メスティオノーラに身体を貸すことで魔力を染め替えられ、フェルディナンドと魔力的に同質ではなくなる。
作者によると仮に魔力的に同質のままだったら二人の間には魔力感知が発現しなかったというから、二人が完全な他者として向かい合い、またパートナーとして結びつくためには、魔力的に異質な存在になる過程が必要だったということになる。
心身共に二人が他者同士となるためには、離ればなれになったり、異なる魔力を得たりする必要があったということだ。そうでないとそれこそ、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフのように悲しい結末を迎えざるを得ないということなのだろう。自分は自分自身とは結婚できない訳だから。