現役弁護士のウヨンウ解説おもしろい。
主人公の設定としてはサヴァン症候群ものっぽいんだけど、ヨンウはちゃんと失敗するし軽率なときもあって超人じゃない。
そして何より、裁判の結果は精神論じゃなく理論的な理由で決まる。そこが法廷ものとしての一番の誠実さだと思う。そのぶん地味と言えば地味なんだけど。
脚本は韓国の弁護士が書いた自伝的な本(複数)を参考にしていて、韓国の人なら「あの事件がモデルだな」とわかるものも多いそうだから、その辺がリアリティを支えているんだろうね。
弁護士視点からの「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」解説〜第1話|弁護士國本依伸: https://note.com/yorinobu/n/n10ddcb6f5730
水星の魔女ネタバレ?総評
そうした若い世代の特異性の象徴として、そして若い世代の中でも特殊な存在の象徴として、スレッタとミオリネの同性愛的な描写があるのだけど、同時に同性愛を作中社会の中で特別なものとして描かない真っ当さが、その同性愛の象徴化という問題性と異常さをむしろ浮き彫りにしていて、同性愛を作中社会では当たり前のものとして描けない(そして主人公であり第一話では視聴者の視線を導入するスレッタはそれに驚くという形で現実との重ね合わせがある)結果として、ここでまた妙な真っ当さの結果あらゆる恋愛関係が平等に暗示にとどまるという描写が出ているのかもしれない(でも結婚して子供はうまれる)。ただそれは作品内で完結しているかに見える作中描写が、実のところ現実における偏見や思い込みを利用していることで裏切られるのだけども。
ただ、同性愛を当たり前として描こうと少なくとも試みたこと(少なくとも作中人物は誰も否定や差別をしない。それはそれで不思議とうか曖昧な誤魔化しでもあるけど、曖昧さによる和解の成立という点で一貫してるのかも)、そういう真っ当さはキャラクターデザインの多彩さに現れていて、その点は美点でもあると思う。
水星の魔女ネタバレ?総評
同時にそれは、若さゆえの無力さと真摯さいう一点で全てを並列にする力技によったモノでもあり(その無力さを助けるのが魔法なのはYAの王道だけど)、大人への赦し(それは奇跡を通して行われる)と裏腹にある大人世代への徹底的な絶望と罪悪感によって成り立っている物語でもあり、その徹底した絶望は社会や大人の変化を期待しないことによって、全てを免責するものとして立ち現れる。
そこではもはや先から受け継がざるを得ないもの=呪いは諦めと共に背負わされ、諦めと共にその存在が許容される。その中で赦しは諦めとして立ち現れていた。
魔女たちの、魔女にされたものたちの怒りは、行き場なく彷徨い、それゆえに自ら魔女になったものによる奇跡が和解に要請される。
そしてそこではキャリバーンは魔女の奇跡を助ける都合のいい機械となる。
水星の魔女ネタバレ?総評
『水星の魔女』の最終回は、『水星の魔女』がどのような物語だったのかを逆に示していた。『水星の魔女』の特にS1では様々なテーマが提示されるかに見えたけど、それらのうちどれが『水星の魔女』のテーマだったのかを、最終回は語っている。
社会を構成する資本主義の常識の外側から来たスレッタ・マーキュリーという女性が、資本主義に禁止された技術を使って魔法を起こし(歴代ガンダム的であると同時に魔法モノ的である映像)、資本主義の枠組みの中でオルタナティブな未来を志向する女性たちに奇跡を見せる。それによって、死者と生者が語り合い、殺されていった弱者の怒りを若い世代が責めるのではなく、その声を聞いて無力故に可能性のある和解を築き、同時にその新しい社会の可能性が家族という旧来の枠組みをそのままにした新しい家族が作られることで示される。
『水星の魔女』とはそのような物語であった、初めからそのような物語を目指していたのだ、と最終回は語る。あるいはそれだけはせめて回収してみせた。実際、『水星の魔女』がそのような物語であることは否定できないし、その点ではうまくやってみせたのかもしれない。
一方でそれは様々な属性への差別や関係への差別を巧みに利用し、同時に曖昧にすることで成立した物語でもあった。
BT これって「日本における和人作家と民族的マイノリティ」の間でもしばしば発生しててバチバチに当てはまる問題だな!?(もちろん和人が白人サイド)
Citing 'Yellowface' Novel, White Author Defends Writing Japanese Historical Fantasy https://www.themarysue.com/citing-yellowface-novel-white-author-defends-writing-japanese-historical-fantasy/
白人の作家が日本の歴史を題材にしたファンタジー小説を書く件で、多くの日系アメリカ人作家を含む作家や読者から反発を受けているという問題。これは人種だけでなくLGBTQなどでも同様だと思う。以下の記事内では、作家が他文化を代表するときはそうする理由と能力について正直に考える必要があるとして、マギー・チャンの4つの考え方が引用されているけど、これは全クリエイターが肝に銘じるべきことじゃないかな。
1.これが私が語るべき物語だと感じるのはなぜですか?
2.この創作物は、富や権力の点で私よりも実際の当事者に利益をもたらしますか?
3.この創作物を成功に導いている私のものではない文化に相互利益をもたらすために、私は何をしているのでしょうか?
4.業界から締め出されている実際の当事者のクリエイターたちを私はどのように助けたりスペースを空けたりしているのでしょうか? それとも単に彼らのスペースを占領しているだけなのでしょうか?
読書したい/たまに天体を撮る/趣味も政治も社会問題も/グッドオーメンズ再燃!/怪物(韓ドラ)/ゴカムの着地と折り合いつかず/原点は蔵馬と飛影(幽白)・女オピと白ランス(オウガバトル)/小日向と冥加(ネオロマ)/成人済のへっぽこフリーランス