「学歴の高い人たち同士でルールを作って回す」の問題点としては「一定以上の知的レベルの人しか理解できない」が思い浮かぶけれど、私は「一定以上の心身のスタミナがある人しか適応できない」も相当深刻だと思っている。
福祉や支援の話で「当事者は努力したか」がやたら取り沙汰されるのは「条件さえ揃えば人は皆努力する」が前提にあるからだろう。
高学歴の人は努力家だ。
それは否定しない。
けれど、世の中には努力できない人が相当数いる。
努力しても人並みでいるのが精一杯の人も、人並みにすらなれない人も相当数いる。
そして、そう指摘した時に「障害がある人はそうなりがちだね」と返されるくらいに「健常者なら努力できるし努力すれば結果を出せる」という認識は社会に蔓延している。
学歴の高い人たちがルールを作る時、無邪気に「努力した人が報われるように」と設定されると永劫浮かび上がれない人がいる。
浮かび上がれないどころか「努力しない人への当然の報い」とされてしまう。
私が「努力した/してない」を俎上に上げたくない理由はここにある。
努力が基準に語られる時に、溢れ落ちるものをこそ問いたい。
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新テニアニメ ドイツ戦6話、ボルクにとって手塚は監督曰くシンデレラなのだが、手塚はガラスの靴もカボチャの馬車も持たずチームや国のためでない自分の為のテニスをする決意だけを持ちドイツ(舞踏会)まで単身やってきたしボルク(王子様)と結婚する為じゃなく勝つためにやってきて、だからボルク(王子様)は『能力共鳴』という本来「2人の人間の能力」が共鳴し合うという力を本当に2人の人間がそこにいなければ成立しないのかという勝利の哲学者としての課題を自分自身で「1人でも能力共鳴は可能」であると証明するに至ったわけで、それは手塚が幸村との試合の中で至高のゾーンに至ったのを目の当たりにしたからでもあって、運命すぎる
雑多アカ。成人。キンキファンだけどここでは殆ど話題にしないかも。ツイッターでは新テニスの王子様やテニミュの話多め。最近は時光代理人(本国版2期視聴済み)とK2にハマってます。舞台や映画や漫画やアニメの感想やら何やらネタバレ配慮しません。生活の話とかもなんでも好き勝手つぶやきます。二次創作はAO3に上げてます。