横道誠がやってることもこれと類似する(もしくは同じ)ことなんでしょうね。事情をいろいろと知ってからは客注以外で著書を売ることは控えているけど、横道本は独立系書店的なところでは人気だし、当然たくさん売ってきてしまっている。本屋をやることの怖さをあらためて感じている。
「余剰」なお金の使い道っていうのはほんっと〜に人それぞれだから、ちょっと贅沢な食べ物に使うよりも本を買う、本を買うよりも音楽に使う、音楽に使うよりも服に使う、服に使うよりも友達と遊ぶ、交際費に使うよりも化粧品に、化粧品よりもアニメフィギュアに、フィギュアよりもスニーカーに、などなどなど色々あって、お金に余裕があっても本は買わない、というひとももちろんいるだろうと思います。お金が無くても食を削ってでも本は買う、というひとももちろん。でもとりあえず「ちょっとの余剰」の割合が増えれば増えるほど、この……言い方はすげー悪いけどいわゆる『余計なもの』に触れる機会はすごくすごく増えると思ってる。底上げをしてほしい。豊かってそういうもんじゃないの。
ここであげられている本屋危機の原因はおおむね数十年前から言われ続けていることで、いまさらなにを「とりまとめた」つもりになっているのだろうか、としか思わないですね(そしてこういう話を熱心に役人にしたであろう業界の古参たちにも似たような呆れた思いを抱く)。
解決策などごくシンプルで、年1万円でもいいから「娯楽費」的なものを国が支給すればいいだけである。それを本に使いたい者はそうするし、別のものや貯蓄に充てたい者はそうすればよい。だいたい1億人として予算は1兆円くらいか。軍事費だとか、そのほかもろもろの醜悪な中抜き事業をやめれば余裕でしょう。
元気な小学生7人に囲まれるなどしていたら仕事が進まないままこんな時間になっていた。幸福感はある。
「過去にお前はこんな差別をしてる、だからお前の主張には正当性がない」的な詰め方って、端的に言って無敵なんですよね。差別をしたことがない者などいないのだから。こういうひろゆき的「論破」は、ようは「それを言ったらおしまいじゃん」でしかなく、その論法で実践可能な反差別はないと思う。それは「公正を求めること」とは相容れないありかたではないだろうか。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。