「過去にお前はこんな差別をしてる、だからお前の主張には正当性がない」的な詰め方って、端的に言って無敵なんですよね。差別をしたことがない者などいないのだから。こういうひろゆき的「論破」は、ようは「それを言ったらおしまいじゃん」でしかなく、その論法で実践可能な反差別はないと思う。それは「公正を求めること」とは相容れないありかたではないだろうか。

私は批判を「私もあなたも勝ちましょう=より差別の少ない世界にしていきましょう」という目的でおこないたいと思っているので、「自分はOKだがお前はダメだ」的な勝ち負けをつけるためにおこなっているように思える論戦には加わりません。

論戦に加わらないというより、直接の応答はしない、というほうが正確ですね。どれだけ「お前を負かしてやる」という意気込みでこようとも、こちらは常に「あなたとともに勝ちたいのです」という態度を可能なかぎり崩さずに応答しますので。

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差別が生じてしまう状況/可能性をできるかぎり小さくすることが目的であるべきだし、であるならば差別をおこなってしまった者に対してすべきことは「自分の非を納得してもらうための説明」であり「論破」ではないですよね。論破したところで納得はしないのだから、つまり今後も同じようなことをしてしまうわけで、それでは目的は果たせない。論破して気持ちがいいのは自分だけで、差別によって苦しむ者が減ることはない。

だから「カウンター」とか「しばく」的なありかたでは根本的な解決はしないと思っていて、それが有効(というかそうせざるを得ない)のは被害当事者が直接やり返さなくてはならないという非常時においてのみだと思うし、だからこそ周囲の者らがカウンターと称してしばいて/論破して気持ちよくなっていてはならないとも思う。

差別や加害をおこなってきた者に対して、その被害当事者が「加害という非を認め納得してもらうための説明」をおこなうのは負担が大きすぎるので、基本的には避けるべき状況となる。だからこそ周囲がその役を担わなければならないし、そもそもそんな状況=誰かが差別を受けるということが生じるのを避ける必要があり、そのためにも「逆ギレさせるだけの論破」をしてはならないとも言える。目の前の敵をこてんぱんに成敗したつもりでも、その敵は別のところに移動してまた別の者を殴ってる、なんてのはナンセンスすぎる。

でもそれがこの10年くらいのSNS、特にTwitterでの反差別なのだと思う。この世界に存在する「ストレスの総量」を増やしていたら、故意におこなわれる差別/加害はなくならない。故意におこなわれる差別/加害の多くは、SOSの発露=ストレス解消なのだろうから。

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